マタギ
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矢口高雄の漫画については「マタギ (漫画)」をご覧ください。

マタギ(又鬼)は、日本東北地方北海道から北関東甲信越地方にかけての山間部山岳地帯で、伝統的な方法を用いて集団で狩猟を行う者を指す。

「狩猟を専業とする」ことがその定義とされる[1]ものの、現代においては単にマタギ郷として有名な土地に生まれ、猟銃を使う猟を生業とする猟師を指すのが一般的である。獲物は主にであり、他にはアオシシ(カモシカ、後述)やニホンザルウサギなどが狩りの対象となる。

古くは山立(やまだち)とも呼ばれており、特に秋田県阿仁マタギが有名である。その歴史は平安時代にまで遡る。近世以降は狩猟にを使うが、独特の宗教観や生命倫理を尊んだという点において、日本の他地方の猟師や近代的な装備の狩猟者(ハンター)とは異なる。

杉などの植林に伴う自然森林の減少やカモシカの禁猟化、山村の社会・経済環境の変化により、本来的なマタギ猟を行う者は減少しており、近世に入ってからは、狩猟を専業とする者、つまり本当の意味でのマタギはごく一部となっている[1]

名前の由来

マタギは漢字を当てた場合、「叉鬼」「又鬼」[2]または「?[注 1]」となる。マタギの語源は諸説あって不明である。有力な説としては、東北地方で狩人を意味する「ヤマダチ(山立)」が訛ってマタギとなったという説、「マタ(シナノキ)の木の皮を剥ぐため入山する人」から来ているという菅江真澄の説[3]アイヌ語で「冬の人」「狩猟」を意味する「マタンギ」「マタンギトノ」が訛ったものという説、山々を一跨ぎに越えてゆくように歩くからという説[3]、執念深く獲物を追う[3]あるいはクマさえ撃ち殺すのだから「鬼」の「また」強い者ということから叉鬼であるとする説などがある。ただし、日本語のマタギという語が先にあり、この語がアイヌ語に取り入れられたという説もある。
マタギの成立と伝説

マタギの成立に関しては平安時代とも鎌倉時代とも言われ今なお定かではないものの、伝説的には万事万三郎という猟師を祖としている。マタギたちが所蔵している秘巻『山立根本巻』『山立由来之巻』によると、清和天皇の頃(850?881年)、上野国赤木明神下野国日光権現とが戦い、大蛇である赤木明神の圧倒的な力の前に日光権現は苦戦を強いられた。そこで日光権現は白鹿に化けて山を下り、日光山の麓に住んでいた万事万三郎というの達者な猟師に加勢を求めた。果たして万事万三郎は見事に赤木明神の両目を射抜き、たまらず赤木明神は退散したので、これを喜んだ日光権現によって「山立御免(日本全国どこの山でも獣を獲ってよいという免許)」を授かり、これが日光派マタギの始まりといわれている。この巻物が書かれたのは建久四年(1193年)の頃の話であり、この万事万三郎なる猟師は天智天皇の末裔とも伝えられている[4]
概要上小阿仁周辺で一般的なマタギ槍(左)と三角柱形状と溝が特徴のマタギ熊槍

マタギの活動時期は冬季?春の芽吹き前の季節に集中している[1]。既に明治維新後の頃にはマタギも専業の者は稀になっており、大半が兼業であった。マタギたちの本職はまちまちであり、猟期ではない夏季は手っ取り早く現金が手に入る鉱山労働や農業、林業などに従事していた。

狩猟の対象は換金効率が高いツキノワグマニホンカモシカが主だが、昭和初期には乱獲の影響からニホンカモシカが天然記念物に指定され、狩猟が禁じられた。ニホンザルなども乱獲の影響から一時激減したため、時代が降るに連れて換金効率の高いクマに狙いを絞って狩猟するマタギが多くなった。マタギ=クマ猟師のイメージは、ニホンカモシカやニホンザル等の比較的小型の獣が狩猟対象獣から外された故でもある。

ツキノワグマの胆嚢、いわゆる熊胆は古来から「万病に効く薬」と信じられており、「熊の胆一、金一匁」と称されるほど高額で売れた。胆嚢だけでなく、ツキノワグマは毛皮や骨、血液、脂肪までもが余すところ無く、薬や厄除けのお守りとして高値で取引された。まとまった現金収入が見込めない山間僻地の住人たちにとって、クマがもたらす現金収入はまさに生命線であったといえる。

マタギはクマを山の神からの授かり物を捉え、阿仁地区では「ケボカイ」と呼ばれる儀式を行って解体した。毛皮や肉、熊胆など「マタギ勘定」という慣習に従い平等に分けた[3]

初冬の頃、森の木の葉が落ち、山中でも見通しが効くようになる冬になると、マタギたちは集団をつくって森吉山八幡平周辺の山地、奥羽山脈白神山地朝日連峰のような奥深い森林に分け入り、数日間に亘って狩猟を行った。

猟はかなりの大規模な猟とならない限り日帰りの場合も多く、万が一野宿することとなっても、大半は山中の洞窟をシェルターの代替物として利用したり、その場しのぎの雪洞を掘ったりして野宿していたとされる[5]。狩りが少人数、もしくは単独行である場合、マタギ小屋と呼ばれる小屋に予めなどを運び込んでおくことで飢えと寒さを凌いだ。いざ狩猟が始まると、マタギたちはここを基地としてクマ狩りを行うのである。この小屋は周辺の大木の切り株や木板を並べただけの非常に簡易なものなので、長持ちはしなかった。風雨によって壊れると、翌年はまた新しい小屋がつくられ、マタギ小屋は数世代にわたってマタギたちのベースキャンプとなった。

また、故郷を遠く離れて何ヶ月間も猟をする旅マタギの場合は、「マタギ宿」と呼ばれる馴染みの農家に逗留するなどし、その宿賃は狩猟の後に精算された[6]。場合によっては旅先で婿養子に迎えられるなどして、最終的にはその地に居着いてしまったマタギも多く、こうしてマタギたちが持つ豊かな狩猟の技術の蓄積はじわじわと東北の各所に伝えられていった。こうしたマタギ宿は秋田県由利郡鳥海町岩手県雫石町田茂木野、沢内村貝沢などに存在していた。

山神様は女性神、しかも相当の醜女であるため、山に女性を入れると、山神様がヤキモチを焼き、猟の失敗と不幸をもたらすと信じられている。したがって、猟のための入山に際しては女人禁制である。もっとも、近年は女性に対して柔軟な考えをも持っている山親方もいる[7]
マタギ言葉

マタギは「マタギ言葉」という独特な言葉を用いる(詳細は当該項目を参照)。
猟の実態

鉄砲を使った猟の形態としては主に三種類ある。大人数で山中に展開してクマを包囲して仕留める巻狩り、単独もしくは少人数で足跡などの痕跡を辿って獲物を追跡するシノビ猟、冬に越冬穴内で冬ごもり中のクマを仕留める穴熊猟である。現代においてマタギの猟法としてイメージされるのは巻狩りであるが、その他にも鉄砲を用いず、山中で圧殺式のを仕掛けるヒラオトシと呼ばれる罠猟等も行っていた。

マタギ組の各人はそれぞれ仕事を分担する。巻狩りの場合、通常は、合図役のムカイマッテの指示に従い、勢子(追い出し役)がクマをから尾根に追いたて、鉄砲打ち(ブッパ[3]、ブチッパ)のいるところまで追い上げる。一つの集団の人数は通常8?10名程度だが、狩猟の対象によっては数十人編成となることもある。マタギ組の頭領はシカリ[1]ないしスカリ、親方と呼ばれ、大抵は猟の技術や山の知恵に長けた老練な猟師が任じられた。山中におけるシカリの権限は絶対であり、猟そのものだけでなく、宗教的儀式や炊事など、山中で行われるあらゆることの一切を取り仕切る立場にあった。

また、クマの冬眠期である冬?初春にかけては「穴熊猟」と呼ばれる猟も行われた。これは雪が降る前にクマが越冬しそうな穴(越冬穴)を探しておき、いざ冬となったら中に眠るクマを強制的に追い出して仕留める猟である。この場合、クマは冬眠中であるために毛皮の状態が良く、また何よりも消化に必要な胆汁が使われておらず目方のある熊胆が穫れるため、第二次世界大戦前までは盛んに行われた。

穴熊猟の場合、まずは越冬穴の中に腹ばいで入り、中にクマがいるかどうか確認する。その後、穴に直接衝撃を与えたりして強制的にクマを起こす。冬眠中であったクマは起こされてもすぐには襲いかかってこないため、そこを仕留めた。また、「穴留め」などと称して越冬穴の入り口に手近なを立てることも行われた。クマは越冬穴の入り口に障害物があると決して押し出すことはせず、越冬穴の中に引き込もうとする習性があり、穴から半身を出したところを仕留めるのだという。また、クマはこの柴に組みついている間はいきなり飛び出したりはしてこないので、「穴留め」には安全対策の意味もあったという。

無事獲物を仕留めると、獲物の御霊を慰める儀式、皮絶ちの儀式、獲物を授けてくれた山の神に感謝する儀式等が執り行われた。修験道に由来するというこれらの儀式はシカリが主催者となって執り行う。この際に唱えられる呪文はシカリを継ぐ者に対し、先代のシカリから師資相承で受け継がれた。これら各種の儀式や呪文については各マタギ郷毎に微妙な違いがあるものの、真言を唱えるなど、全体的には修験道や真言宗密教)の影響が色濃いとされる。
猟具

現代では鉄砲が使用されるが、明治維新以前は火縄銃が用いられた。


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