この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "マゾフシェ・ピャスト家"
マゾフシェ・ピャスト家(Piastowie mazowieccy)は、ポーランドのピャスト家の分枝の一つ。カジミェシュ2世(正義公)の息子コンラト1世を始祖とする。マウォポルスカ・ピャスト家から分かれ、マゾフシェ公国を領有した。
始祖コンラト1世は1226年、異教徒のプルーセン人を平定するためにドイツ騎士団を招聘したことで知られている。またコンラト1世は1241年から1243年までポーランド君主(クラクフ公)を務めた。コンラト1世の次男カジミェシュ1世の子孫であるクヤヴィ公家は14世紀にポーランド王位を獲得したが、3男シェモヴィト1世の直系であるマゾフシェ公家の王子達はポーランド君主の地位を得ることはできなかった。シェモヴィト1世の曾孫の一人ボレスワフ・イェジ2世(ユーリー2世)はハールィチ・ヴォルィーニ王国の君主となったものの、子供を残さずに死んだことで国際戦争を引き起こした。
1526年、一族最後の男子ヤヌシュ3世が死ぬと共にマゾフシェ公家は断絶し、一門の支配してきた公国はポーランド王国に併合された。
Δ
コンラト1世
1187/1188年 - 1247年
ボレスワフ1世
1210年頃 - 1248/1249年カジミェシュ1世
クヤヴィ・ピャスト家シェモヴィト1世
1213/1216年 - 1262年エウドクシヤ
1215/1225年頃 - 1240年頃以後ルドミワ
1225年以前 - ?ジェモミスウ
1216/1228年 - 1241年サロメア
1220/1225年 - 1268年以後?ユディタ
1222/1227年 - 1257年から1263年の間ドゥブラフカ
1230年頃 - 1265年ミェシュコ
1235年/1237年
コンラト2世
1250年 - 1294年 ボレスワフ2世
1253/1258年 - 1313年 サロメア
1248/1262年 - 1301年
アンナ
1270年 - 1324年シェモヴィト2世
1283年 - 1345年トロイデン1世
1284/1288年頃 - 1341年アンナ
1280/1282年または1284/1288年 - 1327年以後エウフロジナ
1292/1294 - 1327年以後ヴァツワフ
1293/1297年 - 1337/1338年
エウフェミア
1305/1312年 - 1374年 ボレスワフ・イェジ2世
1305/1310年 - 1340年 シェモヴィト3世
1316年から1325年の間 - 1381年 カジミェシュ1世
1329/1331年 - 1355年アンナ
1318/1325年 - 1363年ボレスワフ3世
1320年以後 - 1351年
アンナ
1344/1346年 - 1403年エウフェミア
1357年以前 - 1418/1424年ヤヌシュ1世
1347/1352年 - 1429年 マウゴジャタ
1352/1356年 - 1409年 シェモヴィト4世
1353/1356年 - 1425/1426年息子
1357/1366年 - 1378年以前息子
1358/1367年 - 1378年以前ヘンリク
1368/1370年 - 1392/1393年