マゾフシェ公
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1450年のマゾフシェ公

マゾフシェ公は、ピャスト家のうちのマゾフシェ系が有していた称号である。以下にマゾフシェ公国及びその一部の統治者を全て列挙する。 一覧を簡素にするため、マゾフシェ公の称号に対する名目上の権利を有する者に関してはここでは全く列挙していない。

また、年号のいくつかは単に概算であることと、土地の確かな領有者については争いがあったということには注意。最後に、この図表では分割時の他のポーランドの公やヴァーツラフ2世及びヴァーツラフ3世 によって統治された土地は含まない。

統治期間名前備考
"Mas?awの国"
1037年 - 1047年en:Miec?aw ミェシュコ2世の酒注ぎ役でマゾフシェに自分の国を建てようとしたが、カジミェシュ1世に敗れた。
マゾフシェ=クヤヴィ公国
1138年 - 1173年ボレスワフ4世 ボレスワフ3世の息子。
1173年 - 1186年レシェックボレスワフ4世の息子。
1186年 - 1194年カジミェシュ2世(正義公), ボレスワフ3世の息子。
1194年 - 1200年レシェク1世(白公), 以下の兄弟と共同統治。
1194年 - 1247年コンラト1世
1194年 - 1200年ヘレナ・ズノイェムスカ♀, 摂政, 1206年に死去。
マゾフシェ(プウォツク)公国
1229年 - 1248年ボレスワフ1世コンラト1世の息子。
1247年 - 1262年シェモヴィト1世ボレスワフ1世の兄弟
1262年 - 1264年ペレヤスラヴァ・ダニーロヴナ♀, 寡婦で共同統治
チェルスク公国
1264年 - 1294年コンラト2世
マゾフシェ公国
1262年 - 1313年ボレスワフ2世公国を統一し、息子達の間で分割された。
ラヴァ公国
1310年 - 1345年シェモヴィト2世息子の一人で死後に甥のトロイデン1世との間で公国は分割された。
チェルスク及びワルシャワ公国
1310年 - 1341年トロイデン1世
1341年 - 1355年カジミェシュ1世1351年以降はポーランド王の臣下、1355年に死ぬと領地はマゾフシェに再統合された。
プウォツク公国
1313年 - 1336年ヴァツワフ1世ボレスワフ2世の息子, 1329年以降はボヘミア王の臣下。
1336年 - 1351年ボレスワフ3世1340年まで領地は摂政の統治下に置かれた。ボヘミア王の臣下。1351年に死ぬと領地はマゾフシェとポーランドの他の公の間で分割された。
ハーリチ公国
1323年 - 1340年ボレスワフ・イェジ2世トロイデン1世の息子。死去した1340年から1366年の間、ハーリチ公国は次第にポーランドに吸収されるようになる。
マゾフシェ公国
1341年 - 1381年シェモヴィト3世カジミェシュ1世の兄弟。ワルシャワ及びチェルスク公。1370年までにプウォツクを含むマゾフシェの大部分の再統一に努めたが、1374年に息子達の間で分割された。
プウォツク公国
1374年 - 1426年シェモヴィト4世シェモヴィト3世の息子。1386年以降は代々ポーランド王の臣下となった。1382年ドイツ騎士団によって多くの領地(ベウツ、ヴィズナ、ザフクシェ、プウォンスク)を奪われた。
1426年 - 1427年トロイデン2世シェモヴィト3世の息子。共同統治。
ラヴァ公国
1426年 - 1442年シェモヴィト5世シェモヴィト4世の息子。
1442年 - 1459年en:Margareth of Raciborz♀, 持参金としてゴスティニンを受け取ったが、残りの領地はプウォツクに吸収された。
ベウツ公国
1426年 - 1442年カジミェシュ2世シェモヴィト4世の息子。1434年まで兄弟と共同統治。死後にベウツはプウォツクに吸収された。
統一プウォツク公国
1426年 - 1455年ヴワディスワフ1世シェモヴィト4世の息子。
1455年 - 1481年en:Ann of Olesnica♀, ヴワディスワフ1世の寡婦。持参金としてen:Sochaczew、en:Ko?o、en:Mszczonowを受け取る。
1455年 - 1461/1462年シェモヴィト6世とヴワディスワフ2世ヴワディスワフ1世の息子。1459年以降はゴスティニンを単独統治。
1462年頃en:Paul of Gizyckoプウォツク司教。1462年以降はポーランドのゴスティニン、ラヴァ、ベウツ、ワルシャワ公国のプウォツク、プウォンスク、ヴィズナ、ザフクシェの摂政。
ワルシャワ公国
1373年 - 1429年ヤヌシュ1世シェモヴィト3世の息子。1386年以降は代々のポーランド王の家臣。1391年以降はen:Podlasie公。
1429年 - 1454年ボレスワフ4世1436年まで母の摂政下に置かれ、1440年から1444年までPodlasie公。
1454年 - 1462年シェモヴィト6世
1462年頃en:Barbara Ruska (♀) とen:Paul of Gizyckoボレスワフ4世の寡婦とプウォツク司教の共同統治。
プウォツク公国
1454年 - 1475年カジミェシュ3世ボレスワフ4世の息子。1471年まで兄弟と共同統治。同年以降は司教領に属す領地の行政官となり1475年以降は放棄するものの1480年までプウォツク司教として統治した。
1471年 - 1495年ヤヌシュ2世カジミェシュ3世の兄弟でen:Ciechanowとen:?om?aを、カジミェシュ3世が放棄したプウォツク、プロニスク、ヴィズナ、ザフクルスを、1485年以降はen:B?onie,

en:Kamieniec 、en:Wyszogrodをそれぞれ統治。死後に公国はポーランドに吸収された。
ワルシャワ公国
1471年 - 1488年ボレスワフ5世ボレスワフ4世の息子。死後に領地はマゾフシェに吸収。
マゾフシェ公国
1454年 - 1503年コンラト3世ルディ(赤公), ボレスワフ4世の息子。プウォツク、プロニスク、チェルスク、ヴィゾグロド、ワルシャワを含む再統合されたマゾフシェの大部分は未だにポーランド王の支配下に置かれていなかった。
1503年 - 1524/1526年スタニスワフとヤヌシュ3世コンラト3世ルディの息子。1518年まで母アンナ・ラジヴィヴナの摂政下に置かれる。それ以降は共同統治(1524年までスタニスワフは死去)。1526年にマゾフシェはポーランドに吸収された。


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