マスジド・ハラーム
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ヒジュラ暦1431年の巡礼月12日(西暦2010年11月19日)の日没に撮影されたマスジド・ハラームの様子。巡礼月12日はハッジの最終日。マスジド・ハラームの宗教施設複合(religious complex)全体をモスクの南に立つアブラージュル・ベイトの高層階から見下ろす。2012年撮影。

マスジド・ハラーム(アラビア語: ?????? ??????‎, ラテン文字転写: al-Masjid al-?ar?m)は、メッカにあるカアバ聖殿を取り囲み、包含する形で成立しているモスクである[1]。聖モスク[2]あるいはハラーム・モスク[3]ともいう。英語では「メッカの大モスク」(: the Grand Mosque of Makkah)とも呼ばれる[4]

マスジド・ハラームは、イスラーム教徒がなすべき五行のうち、礼拝(サラー)と巡礼(ハッジ)の二行において特別な存在である。日々の礼拝はカアバの方向(キブラ)を向いて行われているが、マスジド・ハラームはカアバを取り囲んで成立しているためキブラがなく、キブラを示すモスクのくぼみ(ミフラーブ)もない。また、一生のうち少なくとも一度は敢行するべきとされる巡礼の際、信徒はマスジド・ハラームの中庭にあるカアバを周回しながら礼拝する。

マスジド・ハラームの中には、カアバ聖殿の他にも、「黒石」「ザムザム」「アブラハムの御立ち処」「サファーとマルワ」といった信仰上重要なものが含まれている[5]。マスジド・ハラームのそばには近年、アブラージュル・ベイトという巨大な(世界で四番目の高さ)ビルが建ったが[6]、建設の際は初期イスラーム時代の遺跡(英語版)が破壊されたため、サウジアラビア政府の行為には批判もある[7]
聖所としてのマスジド・ハラーム

現代にまで伝世している前イスラーム時代のイエメンの詩人の詩に、「マスジド・ハラームの主、アッラーの名において」という一節がある[8]。この詩の中の「マスジド・ハラーム」は、イスラーム時代以後のメッカの「マスジド・ハラーム」と同一であり、前イスラーム時代においてもマスジド・ハラームは聖所であったと考えられている[8]。当時、中部アラビア、ヒジャーズナジュド地方には、マスジド・ハラームのような聖所(?im?)が点在しており、アラブの各部族はそれぞれの崇拝する神々の祭儀をそこで行っていた[9]:26-27。聖所の御神体は聖石、聖木、聖泉が主なものであった[9]:26-27。メッカの聖所の聖石は壁に塗り込められた黒い石(al-?ajar al-aswad)であり[9]:26-27、そのそばにあるザムザム(Zamzam)という名の井戸も祭司がいて何らかの祭儀が行われていた聖泉だったようである[10]。アラビア語で「立方体」を意味するカアバ(al-Ka?ba)も元来は黒石の覆いにすぎなかった[9]:119。

預言者ムハンマドの出身部族であるクライシュ族は、南アラブの部族による襲撃からカアバを守護した人物を始祖とする[11]。この人物の時代のマスジド・ハラームの周辺はおそらく無人であったが、そこから6代ほど下ってマスジド・ハラームの管理者がフザーア部族(英語版)からクライシュ族に交代すると、クライシュ族の部族民が聖所の周りに住み着き始めた[11]。クライシュ族が管理権を手に入れ、巡礼ネットワークを支配した聖所は、ほかにもミナーやナフラ谷(ウッザー女神のための聖所があった)などがあったが、マスジド・ハラームが最も重要であった。

聖典『クルアーン』においては第2メッカ期[注釈 1]以後の啓示に比較的頻繁にマスジド・ハラームへの言及があることが指摘されている[8]。第2章217節ではマスジド・ハラームに多神教徒が立ち入るべきではないこと[注釈 2]、第2章149節では礼拝がマスジド・ハラームを向いて行われるべきであること[注釈 3]が示されている[8]。預言者ムハンマドによるマスジド・ハラームへの言及も伝承集に多く収録されている[8]。例えば、ブハーリーに収録されている有名なハディースでは、マスジド・ハラームが地上最古のマスジドであり、マスジド・アクサーが2番目、その間に40年の開きがあると預言者ムハンマドが述べたと伝えられている[8][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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