この項目では、都市について説明しています。
ブドウの品種については「マスカット (ブドウ)」をご覧ください。
上記ブドウのうち代表的な品種については「マスカット・オブ・アレキサンドリア」をご覧ください。
その他の用法については「マスカット (曖昧さ回避)」をご覧ください。
マスカット
????
Masqa?
オールド・マスカット(2013年)
市旗
位置
マスカットの位置
位置
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マスカット特別行政区の範囲
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯23度35分20秒 東経58度24分30秒 / 北緯23.58889度 東経58.40833度 / 23.58889; 58.40833
マスカット(阿: ???? Masqa?、英: Muscat)は、西アジア、オマーンにある都市・都市圏で、同国の首都。オマーン湾にのぞむオマーン最大の港湾都市で、政治、経済、文化、教育の中心。 古代ローマ時代のアレクサンドリアの学者プトレマイオス(83年頃 - 168年頃)が記した"Map of Arabia"にはCryptus Portus[2]とMoscha Portus[3]の2つの地域が定義されているが、2つのうちどちらが現在のマスカットと関連があるかについて研究者の意見は分かれている。また同時代にローマで活躍した歴史家アッリアノス(86年 - 160年)の著書にはOmanaとMoschaという地名が見られる。アッリアノスの著書の翻訳を行ったウィリアム・ヴィンセント
なお、「マスカット市」(旧市街)自体は人口2万人と非常に小さく、同名の行政区(事実上の都市圏)が「マスカット」として機能している。都市圏(行政区)にはスィーブ、バウシャル、ムトラなどを含み、面積は3,800km2、人口は775,878人と国内最大級のものとなる。一方のマスカット市は8.1km2、20,272人である(2010年国勢調査[1])。
地名の由来
マスカットの語源については、諸説分かれている。
アラビア語のmoscha(膨れ上がった皮)[4]
「停泊地」もしくは「錨を下ろす場所」[5]
古代ペルシア語のmuscat(強い香り)[6]
アラビア語の「落ちる場所」[7][8][9]「山が海に落ちるところ」[10] - オールド・マスカットの背後にある岩山が海に面していることに由来する[7]。
アラビア語の「隠れる」[11]
歴史第一次世界大戦当時のマスカット港と市街
マスカットは中東でも最も古い都市の一つである。その存在は西暦2世紀にはすでに知られており、アラビアとギリシャやローマを繋ぐ貿易都市であった。中世までは西のソハールが重要な交易地として繁栄し、マスカットは船舶の補給地となっていた[8]。
オマーンに上陸した初期の外国人としては、ポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマがいる。ポルトガルの軍人アフォンソ・デ・アルブケルケがマスカットに上陸したときには、マスカットはすでにアラビア半島沿岸部の中心的な港湾都市の一つになっていた[12]。1508年にポルトガルはマスカットを征服し、町の発展が始まる[8]。ポルトガルによって港が整備され、砦と旧市街の建設が行われる[8]。ポルトガル来航以前からマスカットに存在していたミラニー砦とジャラリー砦は改修され、丘陵地にマトラ砦が建設された。1650年、ヤアーリバ朝のイマームであるスルターン・ビン・サーイフがポルトガル勢を打ち負かし、マスカットを奪回する。その後、ヤアーリバ朝はマスカットを拠点に東アフリカをはじめとするインド洋全域に進出し、マスカットはオマーン海上帝国の要として繁栄する。
18世紀にブーサイード朝は首都をマスカットへ移転し、インド洋交易の中心となる。サイイド・サイードの時代に王国の中心はザンジバルに移り、さらに彼の死後、1856年にオマーンとザンジバルに国土が分割されるに及んで、マスカットは急速に衰えた。1870年代にはオマーン国王トゥルキー・ビン・サイードに敵対するオマーンの豪族が2度にわたってマスカットを攻撃した[13]。1895年にはザンジバルのスルターンに呼応するオマーンの主要部族によってマスカットの王宮は一時的に占領される。
その後、石油の発見ならびにオマーンの成長に伴い、1970年のカーブース・ビン・サイードの即位後から再び首都として発展する[14]。石油の収入によって町の再開発が行われたが、土地が狭く発展の余地が無いオールド・マスカットとマトラ地域に代えて、バーティナ平原方面の開発が進められた[15]。バーティナ平原には、マスカット国際空港、ルサイル工業団地、スルターン・カーブース大学などの施設が建設された。カーブースの方針によって、新たに開発された市街地には他のGCC諸国のように高層ビルが立ち並ぶ風景は見られず、伝統的なアラブ様式に基づいた建物が並んでいる[8]。