マジ・マジ反乱
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マジ・マジ反乱(: Maji Maji Rebellion、: Maji-Maji-Aufstand、スワヒリ語: Fitina ya Maji Maji)またはマジ・マジ戦争(: Maji Maji war、: Maji-Maji-Krieg、スワヒリ語: Vita ya Maji Maji)は、1905年から1907年にかけて、ドイツ帝国植民地ドイツ領東アフリカの南部タンガニーカ(現タンザニア)において発生した反乱。植民地政府が現地民に輸出用綿花栽培の強制労働を課したことが原因となり、現地民が蜂起した。「マジ」(maji)はスワヒリ語で「」を意味し、反乱に参加した現地民の多くはドイツ軍の弾丸を液体に変えてしまうという魔法の水を与えられた(実際にその効力が現れることはなかった)。残党の掃討を含めればその鎮圧に約3年の時間を要し、犠牲者数は植民地政府側の数百人に対して現地民側は数十万人に上ったと推測されている。この反乱によりドイツは植民地経営の見直しを迫られ、その後の植民地統治における行政改革を促す結果となった。マジ・マジ反乱発生地域(拡大)
背景

1880年代ヨーロッパ列強によるアフリカ分割の後、ドイツ帝国は公式に認められたアフリカ植民地に対する支配力を強めた。ドイツのアフリカ植民地にはドイツ領東アフリカ(後のタンガニーカタンザニアの大陸部)、ルワンダブルンジおよびモザンビークの一部)、ドイツ領南西アフリカ(後のナミビア)、ドイツ領カメルーン(後のカメルーンおよびナイジェリア東部)及びドイツ領トーゴラント(後のトーゴおよびガーナ東部)があった。その中でもドイツ領東アフリカにおける支配力は当初比較的弱く、アブシリの反乱ムクワワが率いるヘヘ族(英語版)の抵抗などがあったが、その頃から植民地政府は現地民支配のために厳しく弾圧的な方策を採ることにより領内全域に渡る要塞システムの維持・管理を行っていた。
綿花の共同栽培と強制労働ドイツ領東アフリカ総督フォン・ゲッツェン

1898年、ドイツ植民地政府は人頭税の徴収を始め、道路建設やその他様々な事業において過酷な強制労働を課した。1901年、植民地総督にグスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンが就任すると、農業を中心とした経済開発に力を入れた。しかし、ヨーロッパ人が多く入植していた北東部では労働力不足に悩まされ、農業生産の拡大ははかどらなかった。1902年、ゲッツェンは換金作物として綿花に目をつけ、南部でその共同栽培を行うことを命じ、村々は共同の綿花畑(プランテーション)を開墾させられた。綿花栽培には村の成人男性が徴用されたが、年間28日と定められていた作業日数はしばしば延長され、少ない賃金で働かされた[1]。この男性徴用は非常に不評で(彼らは自分たちの畑の農作業もしなければならなかった)、多くの村民は単に土地を耕すことを拒否したか、あるいは納付を拒否した。郡長(アキダ)や村長(ジュンベ)は栽培の管理を任され、労働期間の延長を強要するなどの役目を負わされたため人々の怨嗟の対象になった。

これらドイツの政策はただ不評なだけではなく、アフリカ人の生活に重大な影響をもたらしもした。地域の社会構造は急速に変化し、男女の社会的役割もその影響を受け変わって行った。男性は家を出て働かされるようになったため、女性は伝統的に男の仕事だったものの一部を担わされた。それだけでなく、男性の不在は彼らの村での生活・資産に負担を強い、これらは当時の政府に対する多くの敵意を醸成することとなった。1905年、この地域で旱魃が発生すると、それが政府の農業・労働政策への反発と結びつき、7月の反乱勃発の誘因となった。
キンジキティレ

現地民のドイツ人入植者に対する反感は募っていったが、同時にドイツ人を恐れてもいた。そのような中、ドイツ領東アフリカ東南部、ルフィジ川南岸のマトゥンビ高地に、蛇神ボケロの使者ホンゴ[2]に憑依されたと唱える[3][4]霊媒師キンジキティレ・ングワレ(英語版)(Kinjikitile Ngwale)が現れ、ボケロや憑依により交信した先祖からによるものとする預言を説き、預言により製法を伝えられたとする、ドイツ軍の弾丸を液体に変えるという“秘薬”を与えた。そしてボケロの言葉としてドイツ領東アフリカの民はドイツ人を排除するよう命じられたと訴え、密かに各部族の団結と反乱勢力の結集を呼びかけた。この“秘薬”は水(マジ)にひまし油雑穀の種を混ぜたものだった[5]。やがてキンジキティレは自らをボケロと称し、彼に仕える者をホンゴと呼び、彼の元にはドイツ領東アフリカ東南部の多くの人々が巡礼に訪れた。キンジキティレは巡礼者にマジを与え、ホンゴをキンジキティレの教えを伝えると同時にマジを配る使者として周辺各地へ派遣した。1905年中頃にはマトゥンビおよびキチ高地とその近隣のほとんどがキンジキティレの信者となっていた。
蜂起

1905年7月、マトゥンビ高地ナンデテ村のマトゥンビ族(英語版)住民が徴税に反発し綿花の木3本を引き抜いたことにより反乱は始まった。暴徒は周囲の人々を集め、7月30日に現地アキダの住居を襲った。7月31日にはキチ族(Kichi)が沿岸のソマンガ(サマンガ)を襲ってやはりプランテーションの綿花の木を引き抜き、アジア人交易商の集落を焼き討ちして山地へ撤収した。ソマンガ襲撃は当初この事件がマトゥンビの一部の暴動だと軽視していた植民地政府を警戒させた。当時南部には458名のヨーロッパ人警官と588名のアスカリしか配置されておらず、ゲッツェンは200名をキルワ県へ送った。リンケ中尉に率いられたドイツ軍部隊がマトゥンビに攻め込んだが、反乱軍の待ち伏せ攻撃に遭い、その士気が非常に高いことを知らされた。この蜂起はキンジキティレの指示したものではなかったが、反乱はまたたく間に拡大し、6週間後にはダルエスサラームおよびキロサ以南の全域が反乱地域となっていた。キンジキティレの信者達は、を額に巻き、(火薬で大きな音を出すだけの)おもちゃのピストル、および(毒矢も使用)といった、貧弱な武器しか持たずに蜂起したが、人数だけは多かった。反乱が発生してまもない8月4日、キンジキティレは植民地政府により逮捕され、モホロで絞首刑に処された。8月7日、モゴロに集結していたキチ族をドイツ軍のパーシェ大尉が率いる海軍陸戦隊が撃退し、キチ族はルフィジ川沿いでゲリラ活動に移った。8月8日、ドイツ軍はキバタから山地に入りマトゥンビ族が隠した女性や子供、木の上の監視所および待ち伏せ部隊などを徹底的に捜索した。

マトゥンビ蜂起の報を聞いたンギンド族(英語版)はそれに呼応して動員を命じ、8月13日明け方に3方向からリワレを襲撃、陥落させた。翌日和平を説くために近づいてきたキリスト教宣教師を殺害し、その後沿岸から来たドイツ軍を待ち伏せ撃退した。南ではムウェラ族が蜂起し、渋る住民を強制的に参加させドイツの影響の強かったルクレディおよびニヤンガオへ進撃を開始、それに近隣からの増援が加わった。8月28日にニヤンガオに着いた反乱軍はキリスト教伝道所を襲った。神父は2人のホンゴを射殺し、リンディへ逃亡した。マジは効かなかった。その後反乱軍はルクレディへ向かったが、宣教師は事前に脱出し、マサシで伝道団スタッフを集め190kmを4日間かけて沿岸のミキンダニへ逃れた。反乱軍はルクレディで略奪を働き、その後マサシへ向かったが、この地のヤオ族およびマクア族はまだマジを受け取っておらず、反乱軍をムウェラ族の侵略と見なして敵対した。この衝突で反乱軍側に27名の死者が出た。反乱のニュースはルフィジ川を越えて北のザラモ族(英語版)に広がった。2人のホンゴの到着を受けたザラモ族はマジを受け取り、反乱に参加した(ザラモ族はボケロではなく、コレロを信仰していた)。8月末には、ダルエスサラーム県南半分のほとんどが反乱地域となった。

伝道所破壊の知らせは8月31日にゲッツェンのもとへ届き、ゲッツェンは兵力不足のため一時的にムウェラからの撤退を命じ、ドイツ本国へ増援を要請した。本国では最初増援を拒否したが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はただちに2隻の巡洋艦海兵隊を派遣するよう命じ、他に遠くニューギニアからも増援部隊が送られた。首都ダルエスサラームでは反乱に対する恐怖からパニック状態になりヨーロッパ人志願兵が毎晩軍事教練を行った。「街にいるすべての現地民は蜂起する準備ができていた … もし彼らがその気になれば」とアフリカ人神父は報告している[6]9月5日、ゲッツェンはもっとも恐れていたニュースを受け取った。敵から逃れてきた一人のアスカリがキロサに着き、ムブンガ族の軍がイファカラを取り、マヘンゲとイリンガの重要な軍駐屯地が脅かされていると報告した。
イリンガイリンガ

イリンガには、首都の外ではもっとも重要な戦力が置かれ、多くの経験を積んだスーダン人を含む117名のアスカリがおり、ニグマン大尉に率いられていた。ニグマン大尉は、8月24日にイファカラから逃げて来た交易商から反乱のことを聞いたとき、ヘヘ族(英語版)の反乱参加を防ぐことができれば、反乱の西への拡大を阻止できると判断した。


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