マシュー・ロック
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マシュー・ロック.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

マシュー・ロック(Matthew Locke, 1621年または1622年 おそらくデヴォン - 1677年8月 ロンドン)は、イングランド初期バロック音楽作曲家イギリス最初のオペラ作曲家であり、ヘンリー・パーセルに強い影響を及ぼした。
来歴

エグゼター大聖堂の少年聖歌隊員として音楽活動を始め、オルガン教育も受けた。オーランド・ギボンズの兄エドワードに師事する。オーランド・ギボンズの息子クリストファーとも知り合いとなり、その後も2人はしばしば協力関係を結んだ。エグゼター大聖堂のオルガニストの称号を得る。

イングランド内戦の時期に、皇太子時代のチャールズ2世の知己を得たが、チャールズ2世がオランダに亡命していた時代、その地で楽曲を作曲していたかどうかは疑わしい。王政復古後はチャールズ2世の寵臣となる。

1653年に、ポルトガル大使の歓迎式典のために、マスク《キューピッドと死神》をクリストファー・ギボンズと共作する。ジェームズ・シャーリーの台本によるこの作品は現存しているものの、最初の英語オペラと見なされている《ロードス島の攻囲 The Siege of Rhodes》(1656年?)は、あらかた散逸していて現存しない。《ロードス島の攻囲》は、ヘンリー・クックら他の数人の作曲家との共作であり、台本作家はウィリアム・デイヴナント卿であった。

一方、トマス・シャドウェルの台本による《テンペスト The Tempest》(1674年?)は現存している。この作品もまた共作で、アリアのいくつかはジョン・バニスターが、マスクのいくつかはペラム・ハンフリーが担当している。しかしながら、細部に首尾一貫性があり、全体像としてはいわゆる劇付随音楽として、ロックの手でまとめられている。この作品で記憶に残りやすいのは、「序幕の音楽(カーテン・テューン)」であり、ロックはクレシェンドを(音楽史上で)初めて使って、嵐を模倣した。

オリヴァー・クロムウェル護国卿だった時期は、世俗音楽の作曲家にとっては都合の悪い時期であった。カトリックに改宗していたロックは、さらなる危険に曝された。

ロックは、ヘンリー・パーセルの父親やおじと親交があり、パーセル少年がロックを身近に知っていたことは間違いない。重要な出版人ジョン・プレイフォードとも親交があった。1650年代の中ごろに、ヘレフォードシャー出身の1歳年下の女性と結婚した。

ロックは、1660年の王政復古ののち、重用されるようになった。チャールズ2世は弦楽器に熱狂したため、ロックを新設された合奏団の作曲家と、私的な宮廷作曲家へと任命した。そのなかでロックは戴冠式の音楽を作曲しているが、器楽パートには伝統的な王宮吹奏楽団(His Majesty's Sagbutts and Cornetts)を利用している。加えてロックは、ジョヴァンニ・バッティスタ・ドラーギと競って、王妃キャサリンの専属オルガニストの地位を手に入れた。チャールズ2世のカトリック贔屓の態度からすれば、ロックの立場を強力に後押しした可能性もある。しかしながら、非カトリックの作曲家たちの怨みを買ったロックは、おそらく反対陣営からの横槍により、博士号を取得し損なったと推測される。

ロックの初期作品は、コプラリオやギボンズ、ウィリアム・ローズらが示してきたような、ガンバコンソートのためのファンタジアという古い伝統に依拠している。とはいえチャールズ2世は、この古臭いポリフォニー様式に興味があったわけではなく、大陸風のリズミカルな舞曲にすこぶる熱狂した。ロックは喜んで国王の要望に応えたが、外国人の宮廷作曲家が増え始めると、次第に態度を硬化した。ロックはイギリス音楽の擁護を自分のなすべき使命と見做したのである。自分がイギリス最高の音楽家であると十二分に自覚していたが、それに酔ったり溺れたりはしなかった。その後はライバルへの鞘当てを繰り返したが、攻撃された一人のジョン・バーチェンシャーは、毒舌をもって反発した。曰く、「(ロックは)明らかにカッとし易い性格だった。国王がルイ・グラビュのような人物を重用すると、とりわけ苛々したに違いない」(ルイ・グラビュは、ジョン・ドライデンが非常に熱狂した《アルビオンとアルバニウス》の作曲家。没個性的で凡庸な人物だったらしい)。ロックはそれでもマスクに多くの影響を与えたが、ロックの作風は、たいてい国王の好みよりも「重厚な」ところがあった。

器楽曲や劇音楽に加えて、ロックはアンセムの作曲家でもある。ロックのアンセムは単純明快でわりあい聴きやすく、それでいてしばしば驚くほどの衝撃力を秘めている。ロックのアンセムはとりわけジョン・ブロウに影響を及ぼした。

生前ロックは、多くの同僚作曲家から嫉妬の目を向けられたが、非常に声望の高い人物でもありつづけた。サミュエル・ピープスは、ロックの作品の価値を高く評価している。イギリス・バロック音楽の開拓者として、ロックは相応しい地位に就いていた。パーセルは宮廷作曲家としてロックの後を継ぎ、ロックのために追悼音楽を作曲した。後世になるとロック作品はいささか見逃されがちであったが、20世紀になると再評価が進む。かくてイギリスのバロック音楽におけるロックの重要性が、改めて認識されるようになったのである。
作品一覧
管絃楽曲

1661年 チャールズ2世の戴冠式のための行進曲Processional march for the coronation of Charles II

1673年 声楽つきサンフォニー《プシュケー》 Psyche - 台本:トマス・シャドウェル


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