マシュー・リッジウェイ
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マシュー・B・リッジウェイ
Matthew Bunker Ridgway
マシュー・B・リッジウェイ
生誕1895年3月3日
アメリカ合衆国バージニア州フォートモンロー
死没 (1993-07-26) 1993年7月26日(98歳没)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フォックスチャペル
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1917年 - 1955年
最終階級 陸軍大将
指揮陸軍参謀総長
NATO軍最高司令官
連合国軍最高司令官
第8軍司令官
第18空挺軍団司令官
第82空挺師団
第15歩兵連隊長
戦闘米西戦争
第一次世界大戦(国内勤務)
バナナ戦争
第二次世界大戦
朝鮮戦争
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第2代の連合国軍最高司令官として着任のため羽田に降り立ったリッジウェイ、世界通信より

マシュー・バンカー・リッジウェイ(: Matthew Bunker Ridgway、1895年3月3日 - 1993年7月26日)は、アメリカ合衆国陸軍軍人ダグラス・マッカーサーの後任として1951年4月より1952年4月まで第2代連合国軍最高司令官として日本の占領統治に当たった。また、彼はいくつかの有名な作戦を指揮したが、特に朝鮮戦争で窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名である。
生い立ちと初期の経歴

リッジウェイはバージニア州フォート・モンローで生まれる。1917年に米陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業し、少尉に任官。卒業後、スペイン語教官として陸軍士官学校に戻ることとなる。その後、ジョージア州フォート・ベニングの歩兵学校で士官養成課程を修了し、第15歩兵連隊の指揮官となる。続いてニカラグアへ配属され、ここでは1927年の自由選挙の監督を支援した。

1930年にはフィリピン総督の軍事技術顧問となる。その数年後、カンザス州フォート・レヴンワース指揮幕僚大学に学び、同時期(1930年代中頃)に第6軍団の副参謀長となる。その後、第2軍の副参謀長、第4軍の副参謀長を歴任した。ジョージ・マーシャル参謀総長はその功績を認め、第二次世界大戦が勃発するとリッジウェイを戦争計画局に配属した。
第二次世界大戦

1942年8月に准将に昇任、オマー・ブラッドレーが第28歩兵師団長へ転任したのをうけ、第82空挺師団の師団長となる。同師団は軍の二つの空挺師団構想の内の一つとして選ばれたが、この師団が選ばれたのはリッジウェイの教官としての能力と、同僚たちのあいだで際立っていた思考の柔軟性によるところが大きい。当時空挺師団構想はアメリカ陸軍にとって実験的試みであった。

リッジウェイは1943年のハスキー作戦を支援した。2ヶ月後のジャイアント作戦計画時には副官のマクスウェル・D・テイラーにスパイ活動を行わせ、イタリア軍の無力とドイツ軍が降下地点に展開していることを暴き、作戦中止を決断。この判断で師団壊滅の危機を救ったことが、後の出世に繋がった[1]

1944年にはオーバーロード作戦での空挺降下計画を支援した。ノルマンディー上陸作戦時、彼は部下と共にパラシュート降下し、サン=ソーヴァー=ル=ヴィコントへの進出を目指して33日間の戦闘を経験した。1944年9月には上級の第18空挺軍団の指揮を任され、ドイツへの侵攻を指揮した。一年後彼は中将に昇進する。

1945年の太平洋戦争末期、大尉時代にウェストポイントで仕えたダグラス・マッカーサー元帥のもとで新たな任務につくため、飛行機で太平洋戦域に向かった。しばらくの間ルソン島で指揮を行い、続いて地中海での連合軍副最高司令官に就任した。1940年代末にはカリブ海でのアメリカ軍の指揮を行い、後に陸軍参謀総長J・ロートン・コリンズの下で副参謀長に就任した。
朝鮮戦争

リッジウェイの最も重要な転機は、朝鮮戦争で1950年12月、中華人民共和国の参戦で国連軍が敗走する中、アメリカ第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将が交通事故死したことで生じた。彼はウォーカーの後任として第8軍司令官に就任した。国連軍総司令官(アメリカ極東軍総司令官)ダグラス・マッカーサー元帥は、リッジウェイに、ウォーカーには与えなかった第10軍団(司令官は、マッカーサーお気に入りのアーモンド陸軍少将)の指揮権も与えた。リッジウェイは第8軍を立て直し、中国人民志願軍の攻勢を押し止め、1951年春から反転攻撃に出た。軍事歴史家は圧倒的多数の中国人民志願軍が停止し、結局、韓国から38度線の向こうに撃退することができたのはリッジウェイが第8軍を立て直すことができたからだとする。この期間に、リッジウェイ個人のリーダーシップの例は、基本的な軍事活動における原則についての彼の完全な知識と同様に、アメリカ陸軍史上でほとんど一致することができなかったリーダーシップの標準として定められることとなった。

韓国軍にはアメリカから最新鋭の兵器が供与されていたが、韓国軍がそれらの高価な装備品を安易に放棄して逃亡してしまうことがリッジウェイを悩ませたようで、繰り返し著書「THE KOREAN WAR」[2]でも言及されている[3]。それに対して李承晩は、韓国人兵士をアメリカ軍の装備で武装させることが効率的だと繰り返し主張し、リッジウェイを不快にさせた。リッジウェイは、第一線から全ての韓国師団を引き上げ、訓練する時間が必要であると結論付けている[3]


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