マザーリシャリーフ
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ブルーモスク
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度42分 東経67度07分 / 北緯36.700度 東経67.117度 / 36.700; 67.117
マザーリシャリーフ(ダリー語 : ???? ???? Maz?r-e Shar?f)は、アフガニスタン北部のバルフ州にある都市。州都であり[2]、アフガニスタンにおける大都市の1つである。幹線道路によって、南東にカーブル、西にヘラート、北にウズベキスタンと繋がれている交通の要衝である。マザーレ・シャリーフともいい、報道等ではマザリシャリフと表記されることが多い。
歴史
前史「バクトリア」および「ホラーサーン」も参照
マザーリシャリーフはヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に挟まれた平野部にある。アムダリヤ川の北側は中央アジアであり、この平野を通じてアフガニスタンの中に中央アジアが入り込むような地形になっている。この平野には古来からシルクロードやシルクロードからインドへ向かう街道[3]が通っており、交通の要所として知られていた。そのため街道を通じて様々な異民族が侵入して、興亡を繰り返した。例えば紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世が攻めて来て、ギリシャ人の街を作った。7世紀には中国からインドに向かう途中の玄奘三蔵が訪れた「縛喝国」(バルク国)があったと言う[4]。中世まで、この平野の中心的な都市はバルフだった。一方、東に20kmほど離れたマザーリシャリーフはバルフの近郊にすぎず、中世までは何も無かったようである。 マザールとはアラビア語で「訪れるべき場所、参詣すべき場所」という意味である[5]。イスラム教には聖者(ワリー)の墓廟(マザール)を参詣する風習があり、マザーリシャリーフには「ハズラト・アリー廟」が祭られている。アリーとはアリー・イブン=アビー=ターリブの事である。この人物はスンナ派の第4代正統カリフであり、シーア派の初代イマームでもある。661年、アリーはイラクのナジャフにある「クーファの大モスク」で暗殺された。遺体はその地に埋葬されたと一般には信じられている。しかし1135年頃、イラクから遠く離れたバルフ近郊のアル・ハイル村の住民達が、アリーが夢枕に立つとセルジューク朝の領主のクマジュに訴えた。領主が部下に夢の場所を掘らせてみると、アリーの遺体と証拠のレンガが見つかったので、領主は立派な廟を建てて祭った。しかし、13世紀にモンゴル軍が襲来し地域が混乱した為か、墓の場所は分からなくなった。1480年頃、領主のフサイン・バイカラの元に墓の在り処を示す書物を持った人物が現れた。スルタンがその場所に行ってみると墓が見つかったので大いに喜び、立派な廟を建てたという伝承がある[5]。これが現在のブルーモスクの原型であり、マザーリシャリーフは信仰を集め、隣街のバルフに代わってこの地方の中心都市として発展した。 18世紀、カンダハールにドゥッラーニー朝が起こり、マザーリシャリーフはその版図に組み込まれた。その後、ドゥッラーニー朝は一族のバーラクザイ朝に滅ぼされた。19世紀に入るとロシアの南下政策に対抗するために、イギリス軍がアフガニスタンへの進駐を要求し、三次にわたってアフガン戦争が勃発した。1839年に始まった第一次アフガン戦争ではワジル・アクバル・ハーン
マザールの発見
アフガン戦争