この項目では、プロレスラーについて説明しています。ゲームミュージック作曲家については「斎藤学 (作曲家)」をご覧ください。
「獄門鬼」はこの項目へ転送されています。2011年にデビューした獄門鬼の異名をもつプロレスラーについては「マサ北宮」をご覧ください。
マサ斎藤
1964年東京オリンピックでの斎藤(左)
プロフィール
リングネームマサ斎藤
斎藤 昌典
ミスター・サイトー
マサ・サイトー
本名斎藤 昌典
ニックネーム獄門鬼
監獄レスラー
身長180cm
体重120kg(全盛時)
誕生日 (1942-08-07) 1942年8月7日
死亡日 (2018-07-14) 2018年7月14日(75歳没)
出身地 日本・東京都中野区
スポーツ歴レスリング
トレーナー豊登
ヒロ・マツダ
キンジ渋谷
デビュー1965年6月3日
引退1999年2月14日
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獲得メダル
男子 レスリング
全日本レスリング選手権大会
銅1962フリー97kg級
銀1963フリー97kg級
銅1964グレコローマン87kg級
金1964グレコローマン97kg超級
金1964フリー97kg超級
全日本学生レスリング選手権大会
金1963フリー ライトヘビー級
マサ斎藤(マサさいとう、本名:斎藤 昌典 / さいとう まさのり、1942年8月7日 - 2018年7月14日)は、日本のプロレスラー。東京都中野区出身。
日本プロレスや東京プロレスを経て、フリーランサーとなって新日本プロレスを主戦場に活躍。アメリカにおいても、NWA、AWA、WWFなど各団体で実績を残している[1]。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよびコメンテーターとして活動した。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)。 明治大学在学中の1964年、レスリング全日本選手権にて、97kg超級フリースタイル・グレコローマンの両部門で優勝(グレコローマン部門決勝の相手はのちのサンダー杉山こと杉山恒治。同大会のグレコローマン87kg級では3位)[2]。同年に日本代表として東京オリンピックのフリースタイル・ヘビー級に出場し、3回戦で敗退している。 大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月に日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木・豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし東京プロレスは翌年あえなく崩壊。猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択してフリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった[3]。 アメリカではミスター・サイトー(Mr. Saito)またはマサ・サイトー(Masa Saito)をリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価をうけ、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦して数々のタイトルを獲得するなど、アメリカマット界でも長期に亘って成功した日本人レスラーとなった(後述)。 日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場し、同年9月から日本プロレス選手会長であった大木金太郎や日本プロレス首脳陣に極秘で「NET日本プロレスリング中継」の放映局であったNET(現・テレビ朝日)と猪木&坂口征二との間で行われていた新日本プロレス中継開始交渉にも数回出席している[4]。1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦[3]。明大の同窓である坂口ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助・サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また同時期には上田とともに国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。 1983年からは長州力やキラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格となって活躍。猪木や藤波辰巳ら新日本正規軍との軍団抗争に臨んだ。1985年1月には1シリーズのみだが全日本プロレスへ参戦。ジャンボ鶴田や天龍源一郎と対戦している[5]。 しかし、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件[6][7]の逮捕劇に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求はできないため受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った[8][9]。自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した[3]。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月にINOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国する。 1987年10月4日、巌流島で行われた猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた[10]。その後たけしプロレス軍団に参謀役という名目で参加した。
来歴
オリンピック出場
プロレスデビュー
アメリカへ
維新軍参加と服役
巌流島
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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