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出典検索?: "マケドニア"
この項目の英語やフランス語などにおける発音のカタカナ表記「マセドニア」はこの項目へ転送されています。
この項目では、複数の国家にまたがるマケドニア全域について説明しています。
2019年2月まで「マケドニア」を名乗っていた国家については「北マケドニア」をご覧ください。
その南に隣接するギリシャ国内のマケドニア地方については「マケドニア (ギリシャ)」をご覧ください。
ギリシャ国内の「マケドニア」の中央部については「中央マケドニア」をご覧ください。
ギリシャ国内の「マケドニア」の西部については「西マケドニア」をご覧ください。
ギリシャ国内の「マケドニア」の東部については「東マケドニア・トラキア」をご覧ください。
「ピリン・マケドニア」とも呼ばれるブルガリア国内のマケドニア地方については「ブラゴエヴグラト州」をご覧ください。
以上の全域の統一を図る概念・構想については「統一マケドニア」をご覧ください。
その他のマケドニアについては「マケドニア (曖昧さ回避)」をご覧ください。
北マケドニア(赤)、ギリシャ(白)、ブルガリア(緑)、アルバニア(橙)、セルビア(桃)。年代ごとのマケドニアの領域マケドニアの地形
マケドニア(ギリシア語: Μακεδον?α、マケドニア語: Македони?а、ブルガリア語: Македония、セルビア語: Македони?а、クロアチア語: Makedonija、アルバニア語: Maqedonia、英: Macedonia)とは、東ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的な地域である。
67,000km2ほどの広さに約465万人が住み、スコピエ(北マケドニアの首都)やテッサロニキ(ギリシャ領内マケドニアの中心都市)が人口や経済における2大都市である。現在、大半が
南部およそ50%がギリシャ(エーゲ海に由来する「エーゲ・マケドニア」)
北西部およそ40%が北マケドニア共和国(域内を流れるヴァルダル川に由来する「ヴァルダル・マケドニア」)
北東部およそ10%がブルガリア(ブルガリア・北マケドニア国境に位置するピリン山脈に由来する「ピリン・マケドニア」)
の3ヶ国の領土に分かれている。また、
マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド(アルバニア領)
ゴーラ(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、アルバニア語版)(コソボ領?アルバニア領(ゴーラ人))
プロホル・プチニスキ(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、セルビア・クロアチア語版)(セルビア領)
もマケドニアの一部と見なされる。
上述の「エーゲ・マケドニア」、「ヴァルダル・マケドニア」、「ピリン・マケドニア」などの名称は、マケドニア地域の統一感を好むスラヴ・南スラヴ系マケドニア人(マケドニア語)によって好んで用いられ、ギリシャ人やブルガリア人から見ると攻撃的で不快な呼称と受け止められることもある。
歴史詳細は「:en:Demographic history of Macedonia」および「:en:History of the Macedonians (ethnic group)」を参照
マケドニア王国・古代マケドニア人(ギリシア語版、マケドニア語版、ブルガリア語版、英語版)
古代、アレクサンドロス大王を出した、ギリシャ人の多く住んでいた故地で、大まかに
山地・北西部のアッパー・マケドニア(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、英語版)
海沿い・南東部のロウワー・マケドニア(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、英語版)
の2エリアに区分して認識された。古代ギリシア語を話し、古代オリンピックにも参加するなど、古代ギリシア世界に含まれたと見做されている。
マケドニア属州
古代ローマの属州
マケドニア王朝 (東ローマ)
9世紀から11世紀にかけた東ローマ帝国中期の王朝
スラヴ人の南下・ブルガール人の西進(第一次ブルガリア帝国(7?11世紀))・南スラヴ人の形成
この東ローマ帝国中期、スラヴ人の南下やブルガール人の西進に伴い、追いやられるようにマケドニアのギリシャ人も南下したことで、南スラヴ人がマケドニアの多数を占めるようになった(後世・現在のマケドニア人の祖にあたるが、後述のように、長く独自のマケドニア国家を持たなかったことから、固有の「マケドニア民族」という意識の形成も遅れた)。
キュリロス・メトディオス兄弟
9世紀にスラヴ人へキリスト教の布教に尽力した、マケドニアのテッサロニキ出身。古代教会スラヴ語は、マケドニアやブルガリアで話されたスラヴ人の言語(ブルガリア語など南スラヴ語)を元に産まれた。
中世セルビア王国・第二次ブルガリア帝国(12?14世紀)・オスマン帝国(14世紀?)の支配
この時期(中世)、ブルガリア人、セルビア人、そしてオスマン帝国と、支配者が入れ替わりながら常に外部からの支配を受け続け、マケドニア独自の国家を形成することがなかったため、マケドニア固有の民族意識の形成も遅れ(近世)、19世紀にバルカン諸国が相次いで独立を果たした後も、オスマン帝国の領土として残されて「マケドニア」と呼ばれていた。