マケドニア正教会
オフリドの聖パンテレイモン修道院。
創設者N/A
独立教会の宣言1967年に自称
独立教会の承認全世界の教会法上合法な正教会から独立教会としての承認を得られていない
現在の首座主教オフリドの大主教ステファン
大主教庁所在地スコピエとオフリド
主な管轄マケドニア
国外の管轄アメリカ合衆国、カナダ、西ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド
奉神礼の言語教会スラヴ語とマケドニア語
聖歌伝統不明
暦不明
概算信徒数不明
公式ページ ⇒Македонска Православна Црква - マケドニア正教会公式サイト・英語版有り
マケドニア正教会(-せいきょうかい、マケドニア語:Македонска Православна Црква、ラテン文字転写:Makedonska Pravoslavna Crkva)は、オフリド大主教のもとに創設された正教会の独立教会。マケドニア正教会はマケドニアにおけるセルビア正教会の自治教会として1967年に創設されたが、コンスタンディヌーポリ総主教庁はじめ各正教会からその地位を承認されていない。
しかしながら、多くの正教会の教会は教義の一致に基づくマケドニア正教会の、聖体礼儀(聖餐)の有効性を含む機密の有効性については認めており、相互領聖も行われている。ただし、他の地域の正教会の神品(聖職者)がマケドニア正教会の神品と共同して奉神礼にあたる事が出来るかどうかは、当該教区を管轄する主教の判断による。
マケドニア正教会はマケドニアおよび同国出身者(ディアスポラ)に対して管轄が及んでいる。なお、正教会では国や地域ごとに独自の組織を設置し、マケドニア正教会はマケドニアにおける正教会の組織という位置づけになっている。そのため、その教義については正教会のものであるため、そちらを参照されたい。本項では組織としてのマケドニア正教会について述べる。 1019年、ブルガリア帝国を滅ぼした東ローマ帝国の皇帝バシレイオス2世は、ブルガリア正教会の総主教座を廃止したが、一定の自治を認め、オフリド大主教区が設置された。1767年、オフリド大主教区はオスマン帝国により解体され、コンスタンディヌーポリ総主教庁に併合された。この大主教区の復活をめざす運動は19世紀末から20世紀にかけて行われ、また、1874年にはこの地方はブルガリア正教会(この当時はブルガリアのエクザルフ教区:Bulgarian Exarchate
目次
1 歴史
1.1 起源
1.2 独立教会としての成り立ち
2 他の正教会との関係
3 組織
4 ギャラリー
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
7.1 教区
7.2 教会や修道院
7.3 マケドニア国外の組織
歴史
起源
今こそが、この血のつながった兄弟たちによる争いあいを終わらせるべき時ではなかろうか。そしてそれは、(マケドニアの)国民の教会なくして、オフリド大主教区の設置のみによって果たしてなしうるのだろうか。私は確信している、キリスト教の兄弟たちよ。私は公言したい、あなた方は「マケドニア人」であると、これ以上トルコ人、この地に長らく君臨するパディシャー(Padishah、皇帝)に隷従することのないように。そして、この抑圧された地を、ハゲタカのように引き裂き求めんと欲するギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人に隷従することのないように。[3]
しかしその後ヴァルダル・マケドニアは第一次世界大戦の後の1918年にセルビアの一部となり、その後第二次世界大戦までの間この地方の教区はセルビア正教会のものとなった。第二次世界大戦中、ブルガリアがこの地方を占領した際は再びブルガリア正教会のものとなった。
独立教会としての成り立ち イニシアチブボードからの手紙は、1945年2月に独立したマケドニア正教会を整理するように求め、ASNOMの幹部会宛
1945年3月、ユーゴスラビア共産主義者同盟のもと、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立し、その構成国としてマケドニア社会主義共和国が成立した。1944年、スコピエにおいて、ヴァルダル・マケドニアの教区を管轄する立場にあったセルビア正教会によってオフリド大主教区の復活が議定された。決定はいったんは否定されたものの、1958年に認められ、またこのオフリド大主教区をマケドニア正教会へと改組する提案が1959年6月に認められた。この決定にはユーゴスラヴィアの共産主義政府の強い圧力があった。ドシテイ(Dositej)がはじめての大主教となった。この時点ではマケドニア正教会は、セルビア正教会の自治教会であった。
セルビア正教会は議定AS. No 47/1959 および6/1959、覚書 57 of June 17/4, 1959に同意した。この決定はマケドニアの司祭たちおよびセルビア総主教ゲルマン(German)による共同の奉神礼によって祝福され、セルビア正教会がマケドニア正教会を承認することを表した。1962年、セルビア総主教ゲルマンおよびロシア総主教アレクシス(Alexis)は、マケドニア正教会をたずねた。聖人メトディウス(Methodius)とキリル(Cyril)の祭日に、両者はマケドニア大主教ドシテイと共に、マケドニア正教会で初めてとなる奉神礼を共に祝福した。
1967年7月19日、オフリドにてマケドニア正教会は自ら独立教会であると宣言、マケドニア社会主義共和国の国民に対して公言した。
他の正教会との関係 ハリストス(キリスト)への哀悼(1164年)スコピエ近くのネゼリ(Nerezi)のフレスコ画
ユーゴスラヴィアが分裂し、共産主義政権が崩壊したことにより、セルビア正教会とマケドニア正教会の間に新たな問題が生じた。その内容は、マケドニア正教会が自治を獲得する過程に関する問題点、および新たに独立したマケドニア共和国において少数派となったセルビア正教会の信者に関する問題、中世ネマニッチ(Nemanji?)時代におけるセルビア正教会の聖堂に関する問題である。
2つの正教会は2002年、セルビアのニシュにて妥協を図るための交渉を行い、マケドニア人を教会法が定めるところによる事実上の(de facto)独立した存在であると位置づけた。