マクデブルク
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紋章地図

基本情報
連邦州:ザクセン=アンハルト州
郡:郡独立市
面積:200.97 km2
人口:

236,188人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:1,175 人/km2
標高:海抜 43 m
郵便番号:39104-39130 (旧 3010-3090)
市外局番:0391
緯度経度:北緯 52度08分
東経 11度37分
ナンバープレート:MD
自治体コード:15 0 03 000
市の構成:40 小市区
市庁舎の住所:Alter Markt 6
39104 Magdeburg
ウェブサイト:https://www.magdeburg.de
E-Mail:info@magdeburg.de
行政
上級市長:ルッツ・トゥリュンパー
(Dr. Lutz Trumper)
(SPD)

マクデブルク(Magdeburg、ドイツ語発音: [?makd??b??k] ( 音声ファイル))はドイツ連邦共和国都市ザクセン=アンハルト州の州都。主な宗教はルター派プロテスタント。人口は約24万人。
歴史1900年のマクデブルク

805年カール大帝の勅令に初めて≫Magadoburg≪としてこの地名があらわれる[2]。マクデブルクは、東方のスラヴ人に対する防備施設と交通の要衝に位置する重要な商人集落として出発した[3]神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世が即位前に過ごした街としても知られる。かつてその宮殿が在った場所には、1209年から 1520年にかけて建設されたドイツ最初のゴシック大聖堂である聖マウリティウス・聖カタリーナ大聖堂(Dom St. Mauritius und St. Katharina)が立っており、オットー大帝とその最初の妃エドギタの棺が安置されている[4]

968年に大帝によって大司教座が置かれ、スラブ人への布教の中心地となった[5]1121年に、司祭者集団の修道会であるプレモントレ修道会を創立したクサンテンのノルベルト(Norbert von Xanten; 1082-1134)は、「1126年には当時空位であったマクデブルク大司教に任ぜられた」[6]。 そして「遠隔地商業都市と王宮所在地」として重要な地位を占めた[7]

12世紀に至るまで都市領主としての大司教と市との関係は良好であった。叙任権闘争においてもホーエンシュタウフェン家ヴェルフェン家が王権(皇帝権)をめぐって争った際にも市は大司教の側についた。ホーエンシュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンはこうして1199年マクデブルクにおいて宮廷会議を催した[8]ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、この地でのクリスマスの祝いで、テューリンゲン人・ザクセン人の奉仕をうけながら、王冠を頂き王笏を手に歩を進める王と王妃の姿を描写している[9]。フィリップ・フォン・シュヴァーベンの死後、1208年フランクフルトでドイツ王に選出され、1209年ローマで神聖ローマ皇帝戴冠式を果たしたオットー4世は、ドイツに帰国すると、1212年反オットー派のマクデブルク大司教を討ち、マクデブルク一帯を蹂躙した[10]

この間、商人居住区の自立化は進み、商人団体が結成され、都市貴族も生まれ、そこから輩出された参審人(Schoffen)が市政に受容な地位を占めるようになった[8]。都市の自治を示す1188年制定の「マクデブルク法」(Magdeburger Stadtrecht)は多数の都市法の基礎になった[11]1244年以降、参審人(Schoffen)による統治制度から市参事会による統治制度へと移行した[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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