マクスウェル・D・テイラー
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マクスウェル・D・テイラー
Maxwell Davenport Taylor
マクスウェル・テイラー
生誕1901年8月26日
アメリカ合衆国ミズーリ州 キーテスビル
死没 (1987-04-19) 1987年4月19日(85歳没)
アメリカ合衆国ワシントンD.C.
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1922 - 1964
最終階級陸軍大将
指揮統合参謀本部議長
陸軍参謀総長
第8軍司令官
第101空挺師団
戦闘第二次世界大戦
朝鮮戦争
除隊後駐ベトナム共和国・アメリカ大使
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礼装姿のテイラー。

マクスウェル・ダヴェンポート・テイラー(英語: Maxwell Davenport Taylor, 1901年8月26日 - 1987年4月19日)は、アメリカ合衆国軍人、外交官。
経歴

テイラーはミズーリ州キーテスビルで生まれ、1922年にアメリカ陸軍士官学校を卒業した。日本語など7カ国語に通じ、1937年の盧溝橋事件のときは、駐日大使館付武官補佐官であったが北京に出張した。そして、北京の食堂に入って日本軍の兵士の方言を聞き分け、内地3個師団が派遣されたことを確認した。[1]
第二次世界大戦

テイラーのアメリカ政府内での昇進は、第二次世界大戦初期における第82空挺師団マシュー・リッジウェイ将軍の下から始まった。1943年にはその外交および言語能力からローマでの秘密任務に結びついた。ドワイト・D・アイゼンハワー将軍は後に「私が戦争の間、いかなる他のエージェントおよび密偵に依頼したよりも、彼が冒した危険は大きかった。」と語った[2]。彼は新しいイタリアの首相、ピエトロ・バドリオ元帥に会って第82空挺師団が降下してイタリア軍と共に行動する任務のコーディネイトを任された。ローマの近くに降下して占領する予定であったが、彼はそれが既に遅すぎるということを悟り、作戦は土壇場で中止された。ドイツ軍は予定された降下地帯をカバーするために既に移動していた。テイラーが降下の中止を報告したとき、輸送機は既に飛行中であった。

地中海戦役後にテイラーは、イギリスで訓練中の第101空挺師団に配属される。同師団の創立者および指揮官であったビル・リー少将心臓発作を起こした後、テイラーは師団の指揮官に就任した。

テイラーは従卒と共にノルマンディーへ降下し、連合軍の将官としてD-デイ当日最初にフランスの地に立った。彼はその後終戦まで第101空挺師団を指揮したが、その後同師団が参加した最も有名な戦闘であったバルジの戦いでのバストーニュにおける戦闘では、スタッフ会議に出席するため本国に帰国中で戦闘を指揮することはできなかった。彼の代わりにアンソニー・マコーリフ将軍が同師団を指揮した。落下傘兵のうちの幾名かはこの出来事からその後テイラーに憤慨した。テイラー将軍は、バストーニュにおける第101空挺師団の防衛戦を第二次世界大戦における「最もすばらしい時間」であったとし、当時彼がその現場に不在であったことを、第二次世界大戦で最も当て外れの出来事であったと述べた[3]


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