マクシミリアン1世_(神聖ローマ皇帝)
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2017年12月)

マクシミリアン1世
Maximilian I.
神聖ローマ皇帝
アルブレヒト・デューラー
「晩年のマクシミリアン1世」
在位1477年 - 1482年(ブルゴーニュ公)
1493年 - 1508年(ローマ王)
1508年 - 1519年(神聖ローマ皇帝)
戴冠式1486年4月9日(ローマ王)

出生1459年3月22日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーナー・ノイシュタット
死去 (1519-01-12) 1519年1月12日(59歳没)
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ヴェルス
埋葬 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーナー・ノイシュタット、聖ゲオルク教会
配偶者マリー・ド・ブルゴーニュ
 ビアンカ・マリア・スフォルツァ
子女フィリップ
マルグリット
家名ハプスブルク家
王朝ハプスブルク朝
父親フリードリヒ3世
母親エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル
サイン
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マクシミリアン1世(ドイツ語: Maximilian I., 1459年3月22日 - 1519年1月12日)はオーストリア大公ハプスブルク家6人目のローマ王(ドイツ王、在位:1486年 - 1493年)[注釈 1]、そして1508年からは神聖ローマ帝国史上初めてローマで戴冠式を挙げることなく選ばれしローマ皇帝を名乗り以後のローマ王もこれに倣い皇帝を称した[注釈 2]。また諸侯の要請を受け帝国を領邦国家連邦として法制化し、帝国の範囲を「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号でドイツに限定した[注釈 3]。治世を通して皇帝と帝国の権威は縮小したが、一方で一諸侯としては自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめてハプスブルク家の隆盛の基礎を築きマクシミリアン大帝(Maximilian der Grose)と称される。また武勇に秀で体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士(the Last Knight 独:der letzte Ritter)とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。ポルトガル王アフォンソ2世の雲孫、ポルトガル王アフォンソ3世の仍孫、ルドルフ1世とポルトガル王ディニス1世の昆孫、アルブレヒト1世とポルトガル王アフォンソ4世の来孫、ポルトガル王ペドロ1世の玄孫、ポルトガル王ジョアン1世の曾孫、ポルトガル王ドゥアルテ1世の孫である。
生涯
生い立ちフリードリヒ3世と皇后エレオノーレ

14、15世紀当時、神聖ローマ皇帝位は実態を伴わない官職の一つと化し、ドイツ圏には領邦国家が乱立していた[1]。このような時代の中、勢威ある選帝侯たちに祭り上げられる形で、1440年、凡庸なハプスブルク家フリードリヒローマ王となる[2]1452年3月16日、ローマで教皇ニコラウス5世によって、ポルトガルドゥアルテ1世の王女で15歳のエレオノーレと結婚式を執り行う[3]。そして3月19日、教皇の手により戴冠した。

海洋国として裕福だったポルトガルから嫁したエレオノーレに、ノイシュタットの宮廷は陰鬱であり、またフリードリヒ3世との年齢差や迷信深く寡黙な性格に失望する[4]。長男の夭折を経て、結婚7年後の1459年3月22日、待望久しい皇子マクシミリアンが誕生するが、フリードリヒ3世の子ではないと噂された[5]

フリードリヒ3世も皇子誕生を喜び、占い師に皇子の将来を占わせると、次のような結果を得た[6]

「充実した、楽しい、意気盛んな人生。戦いにつぐ戦い。辛苦。雄大な計画。胸はずむような期待。幾度かの幻滅。しかし赫々たる勝利の連続。」

?江村洋 『中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン1世伝』 中央公論社、p.20


マクシミリアン1世の生涯において、この予言はほぼ現実となった[6]。また、数々の打撃の都度、彼自身「暗い星座」のためと発言したとされる[7]
少年時代
母后の影響

マクシミリアンが3歳の1462年8月、父帝フリードリヒ3世に対し、野心家の叔父アルブレヒト6世(オーストリア大公)が叛乱をしかけ、混乱に対処しない皇帝に対しアルブレヒトに煽動され、ウォルフガング・ホルツァーを筆頭に市民が議会に殺到し、マクシミリアンと母后エレオノーレはウィーン王宮に幽閉される[8]


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