マクシミリアン・ロベスピエール
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ロベスピエール」はこの項目へ転送されています。当項目ロベスピエールの弟については「オーギュスタン・ロベスピエール」をご覧ください。

フランス政治家マクシミリアン・ロベスピエールMaximilien de Robespierre
マクシミリアン・ロベスピエール、1790年頃
生年月日1758年5月6日
出生地 フランス王国アルトワアラス
没年月日 (1794-07-28) 1794年7月28日(36歳没)
死没地 フランス共和国パリコンコルド広場
出身校リセ・ルイ=ル=グラン
パリ大学
前職弁護士
所属政党ジャコバン派山岳派
サイン
公安委員会委員
在任期間1793年7月27日 - 1794年7月28日
テンプレートを表示

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(: Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期で最も有力な政治家であり、代表的な革命家

ロベスピエールは国民議会国民公会代議士として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活躍した。9月25日、内憂外患の中でロベスピエールが希望していた国民公会からの完全な信任(独裁権)が、公安委員会の議決を経て認められた。左翼ジャコバン派および山岳派の指導者として民衆と連帯した革命を構想、共和国を守るためと称して国王や政敵などの粛清を相次いで断行した("テルール")。ギロチンによる処刑が進む間も、劇場もパレ・ロワイヤル街の街娼も営業を続けており、パリの市街は富貴なブルジョア婦人たちが美しさを競いあっており、馬車の往来も頻繁で革命前と変わらない日常の喧騒に包まれていた。しかし、労働者の生活レベルはパンやバターにさえ欠乏する困窮状態が続いていた。パリには富と自由を享受する繁栄の世界と貧困と苦痛に喘ぐ苦難の世界が共存する状況にあった[1]。ロベスピエールによる恐怖政治は、「クーデターや反乱を画策する王党派」「陰謀をめぐらし政府を転覆しようとする政治家」として、自党派内を含む政敵を大量殺害するものであった。これは後のテロリズムの語源となった。ロベスピエールは普通選挙を擁護し民主主義を標榜したが、その評価には恐怖政治期の独裁者というイメージ[注釈 1]が定着している。
概要

1758年フランス北部に位置するアルトワ州の地方都市アラスで、弁護士の家庭に生まれる。早くに母を亡くし、その後父が失踪するなど家庭環境の動揺に直面するが、勉学に励んで進学を果たす。1780年、奨学金を得てパリリセ・ルイ=ル=グラン学院を優秀な成績で卒業し、翌年1781年アラスで弁護士を開業した。

1789年、ロベスピエールはフランス革命直前に三部会が招集されると立候補して選挙に勝利、議員に選出されて再びパリへと旅立つ。まもなく発足した憲法制定国民議会ではジャコバン派に属して演説能力を高め、リベラル政治家として活躍を見せた。1791年には国民議会での派閥抗争を次期立法議会に持ち越さぬために現職議員の立候補を禁止する法案を提出し、同法案を成立させた。1791年憲法が成立、立憲王政下に立法議会が発足したのにともないロベスピエールは一時下野してジャーナリストの世界に転身していく。『有権者への手紙』という誌名で新聞を発行して国民世論の支持を確立、パリでの足固めをしていく。程なくして国王一家が国外逃亡を図って失敗するヴァレンヌ事件が発生した。これを契機にジャコバン派から穏健派が脱退したが、ロベスピエールはフイヤン派ジロンド派を結成した時は立場を保持して、反戦、革命の継続を唱えて少数派の左派に留まった。

議員としてハードワークをこなす一方、秩序と道徳を重んじて質素で堅実な生活を営んだため、市民に人気があり「清廉潔白な人」と称されたが、政敵からは非妥協的で人間的温かみが欠けた人物と評され、周囲から孤立した。

8月10日事件以後はジャコバン派の左派山岳派を指導して政局を掌握し、1792年国民公会選挙でアラスからパリ市内の選挙区に変えて立候補してトップ当選を果たした。1793年1月15日から1月19日まで、ルイ16世を訴追した国王裁判や処刑を主導するなど活躍を見せた。また、フランス革命戦争での苦戦の責任を厳しく追及し、開戦を決断しながら戦局を打開できないジロンド派の粛清を展開した。

1793年7月27日にロベスピエールが公安委員会に選出されて以降は、革命政権の確立と自己の政治的・社会的理想の実現に邁進した。ルソーの思想に影響を受け、一般意志すなわち自由・平等・友愛といった理念に加えて公共の福祉を重視した。また、政治的には国民の8割を占める小規模な独立自営農や独立小生産者に属したサン・キュロットと呼ばれる一般市民や無産労働者を支持基盤としており、プチブル民主主義共和国を理想とした。 フランス革命戦争で敗北が相次ぐなか戦争遂行を続けていくことに加え、ヴァンデ戦争といった内乱が生じたために国内の反革命勢力に対抗する必要が高まり、"テルール"と呼ばれた恐怖政治が導入された。ジャコバン派内の反対派に対しても粛清がおこなわれ、ロベスピエールは大衆運動を重視して議会と対立する路線を選択したエベール派、新興資本家階級と提携しようとしたダントン派の指導者たちを革命裁判所を通じて次々と逮捕・処刑した。

1794年6月8日、ロベスピエールは非キリスト教化を主導して最高存在の祭典を挙行するなど、革命政府の中核的存在となった。しかし、容赦のない弾圧への反発が強まり国民公会でのロベスピエールの立場は悪化していく。7月27日テルミドール9日)、フーシェバラスタリアンら地方派遣議員は反対派を糾合して国民公会でロベスピエール派の逮捕を可決した。ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送致されたが、監獄を出て市役所に急行し、市民に蜂起を促した。しかし、国民公会が派遣した国民衛兵に包囲されて逮捕され、弟オーギュスタンやルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストらと共にギロチンで処刑された(テルミドール反動[3]
生涯
前半生
誕生(1758年)ロベスピエールの出生証明書(1758年)。

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(以下、マクシミリアン、あるいはロベスピエールと略記)は、1758年5月6日フランス北部に位置するアルトワ州(現在のパ=ド=カレー県)の地方都市アラスで生まれた。父は結婚当時26歳で法曹家のフランソワ・ド・ロベスピエール(フランス語版)。母は22歳でビール製造業者の娘ジャクリーヌ・カロである[4][5]

母は正式な婚姻の前に既に妊娠中(妊娠五カ月目)であった。敬虔さを重んじるアラスの町での当時の価値観では良家の子女にあるまじき不名誉な結婚であった。結婚をめぐってトラブルが生じたもののフランソワは男子の責任を果たす[6]。間もなくジャクリーヌは出産してマクシミリアンが誕生するが、出生における瑕疵は彼を生涯苦しめ、その後の人生を規定していく。ジャクリーヌは多産で長男マクシミリアンの後、シャルロット(フランス語版)(1760年)、アンリエッタ(1761年)、そしてオーギュスタン(1763年)が間を置かずに生まれた。
幼少期(1760年代)

父フランソワは優秀な弁護士で、年に30件ほどの訴訟案件を担当、彼の弁護士事務所は成功を収めていた。しかし、オーギュスタンが生まれて一年が経った1764年、家族に悲劇が襲う。当時としては珍しいことではなかったが、母ジャクリーヌは五番目の子供を出産中に死亡したのである[5][7]。母の死によってそれまで幸せだった家族は急激に破綻していく。父フランソワは絶望で打ちひしがれたのか妻の葬儀に出席しなかった[7]。12月、彼はアラス東方15マイルに位置するオワジ=ジ=ヴェルジェにあって荘園を領有する貴族に仕える法務官となった。法務官の任を果たした後に父フランソワはアラスに戻ってきているが、妻を思い出して辛くなるのを恐れてか残された家族と暮らすことはなかった。家族を捨てた父は仕事で神聖ローマ帝国マンハイムに向かって故郷を離れていき、その後終生子供たちに会うことはなかった[8][9]

マクシミリアンと彼の弟妹は幼くして母を亡くし、父も家を離れたたため、家族は離散を余儀なくされた。妹二人は父方の叔母に引き取られる一方、マクシミリアンとオーギュスタンはそれぞれ6歳と1歳の時に母方のカロ家の祖父母の家で引き取られ、そこに同居している叔母のアンリエットに養育されることとなった[9]。祖父母の家はロンヴィル通りに面した所にあり、マクシミリアンは手工業を生業とする労働者が行き交う騒がしい街で成長していくこととなった。ちょうどこの時にマクシミリアンは天然痘に罹患して顔に軽度のあばたが残った[10]

なお、父の不在とネグレクトでマクシミリアンは孤児となって家族の愛情を受けられず不安定な家庭環境の中で成長して、成人後は人間的温かみに欠けた歪んだ人間になったと語られることが多い[注釈 2]が、歴史家ピーター・マクフィー(英語版)によればこうした見解は事実ではないという[11]

6歳までは母親からの愛情を受けて成長し、母親の死後は叔母をはじめ温かい親族に支えられながら養育を受けたほか、家から数分の距離に住む姉妹とも頻繁に会える環境で暮らしており、決して孤独でも不幸な境遇に置かれたわけではなかったと指摘されている[12]。ただし、甘え盛りの幼少期にマクシミリアンが母の死と家族離散から受けた打撃は大きく、子供らしい陽気で騒々しく乱暴な少年の人間形成に変化が生じて、成人後に人々から知られた人格を形成しはじめ「生真面目で思慮分別のある勤勉な人間」へと成長していった。アラスの活気ある市街の拡大や大聖堂の修築など建設ラッシュとは対照的に、敬虔なカトリック信者であった叔母たちの影響で規則正しく節制を重んじる平静な暮らしを送っていた。その後の少年期はケンカや騒々しい遊びではなく、読書と模型作りに熱中し、鳩やスズメをペットにして絵を描くことに情熱を注ぐ内向的な子供になっていった。日曜日には兄弟姉妹がロンヴィルの家に集まって兄弟愛に満ちた幸せと喜びに満ちた日々を過ごしていたという[13]

マクシミリアンは叔母に読書算を教わり、8歳になると地元アラスの中等教育機関コレージュに通い始めた。コレージュでは古典教養としてラテン語地理歴史が教えられた。また、アラスはフランスの国境地帯に位置し、ピカルディ方言が強かった地域だったため、この地域での教育は首都パリで話されたフランス語の習得が特に重視された。コレージュには四百人の生徒が通っていたが、頭脳明晰なマクシミリアンはすぐに群を抜いた存在となっていく。両親のいない家庭で弟妹を抱えた少年は、勉学していずれは自分が家族を守っていかなければならないという責任感を抱え、必死で勉強していった。11歳の時に弁論大会に参加する一団に選抜され、ラテン語のテキストに注釈を加える能力を披露するなど優秀な成績を残した。やがて、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グランに学ぶこととなった[9][14]
ルイ大王校時代(1769年-1781年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:425 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef