マキシミリアノ・コルベ
[Wikipedia|▼Menu]

マキシミリアノ・マリア・コルベ
コンベンツアル・フランシスコ会司祭

聖職
司祭叙階1918年
個人情報
本名ライムンド・コルベ
出生1894年1月8日
ロシア帝国
ポーランド立憲王国
ズドゥニスカ・ヴォラ(ポーランド語版)
死去 (1941-08-14) 1941年8月14日(47歳没)
ドイツ占領下ポーランド
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
聖人
記念日8月14日
称号証聖者・殉教者
列福1971年10月17日
ローマ
列福決定者パウロ6世
列聖1982年10月10日
ローマ
列聖決定者ヨハネ・パウロ2世
テンプレートを表示

マキシミリアノ・マリア・コルベ[注釈 1]ポーランド語: Maksymilian Maria Kolbe、1894年1月8日 - 1941年8月14日)は、ポーランドカトリック司祭アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、「アウシュヴィッツの聖者」と呼ばれる。カトリック教会の聖人で記念日は8月14日
生涯
幼少時代

マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ・Rajmund Kolbe)は、1894年1月8日に当時ロシア帝国衛星国であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた。成長したのは彼と兄のフランシスコ(1892年 - 1945年)と弟のヨゼフ(1896年 - 1930年、後に同じく司祭となる)の3人で、下の2人の弟であるヴァレンチオ(1897年11月1日生)とアントニオ(1900年5月19日生)は夭逝している[1]

父のユリオ・コルベは、在俗フランシスコ会のリーダーであった。そして、愛国心に富んだ彼は、第一次世界大戦中にポーランド独立のための義勇軍に参加し、ロシア軍に捕らえられ、1914年に処刑されている[2]。母のマリア・ドンブロフスカは、結婚前は修道生活を志したことがあったが、帝政ロシアの統治下にあった地域ではカトリックの修道院は許されていなかったため、修道生活は不可能であった[3]。母のマリアは、1946年5月に76歳で修道院で死去した[4]

ユリオ・コルベの先祖はボヘミアからの移民であり[5]、「コルベ」はドイツ風の名前であったが、コルベは一生ポーランド人であるという意識を持っていた。ローマ神学校で同級生に「ドイツ人」と言われて、顔は真っ赤になったといわれている[6]

信心の面では、一家は聖母マリア崇敬が強く、子供時代の聖母マリアの出現に強い影響を受けていた。後の母の回想では、彼は以下のように語っている。私は聖母に私はどうなるのかと尋ねました。そのとき、聖母が白と赤の2つの冠を持ってやって来ました。そして、どちらの冠を喜んで受け入れるかお聞きになりました。白は純潔を保ち、赤は殉教者となることを意味していました。私は両方ほしいと言いました。[7]
コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会

両親は兄のフランシスコを神学校へ進学させるため、ライムンドは家業を継ぐこととなり進学が出来なくなった。ところが助産婦をしていた母の使いで薬局に行った際、薬品のラテン語名をすらすらと言えるライムンドの賢さに薬剤師のコフフスキーは驚き、その後は個人的に勉強を教え、兄と共に中等教育が受けられるよう援助した。

1907年に、ライムンドは兄のフランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、ロシアとオーストリア・ハンガリー帝国の国境を越えてルヴォフ(現在はウクライナ領のリヴィヴ)にあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学した。 彼は数学の才能に恵まれ、数学の授業を担当した教師が「こんな才能をもっているのに司祭になるのは惜しい」と嘆く程であった[8]。この頃に彼はロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を描いたという[8]

1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられた。後の1914年にローマで聖母マリアの崇敬を示すために、さらにマリアの名前を取って、マキシミリアノ・マリアとした。1912年、彼はクラクフに送られ、そしてローマへの留学生に選ばれたが、最初は長上に健康がすぐれないなどの理由で辞退したが、長上の決定に従わなかったことで悩み、結局はローマ行きを決めている[9]
ローマ

ローマで彼は哲学神学数学および物理学を学んだ。1915年グレゴリアン大学で哲学の博士号を、そして1919年には神学の博士号を聖ボナベントゥラ大学で取得した。この頃にはフリーメーソンによる記念日の間に、教皇ピウス10世およびベネディクトゥス15世に反対するデモを目撃している。彼等は「ジョルダーノ・ブルーノ」の黒い色の軍旗をバチカンの窓の下に置きました。この軍旗には、大天使ミカエルが勝ち誇ったルシファーの足元に横たわっているのが描かれていました。同時に、教皇を侮辱し攻撃する数え切れない量のパンフレットが人々に配られました。[10][11]

このできごとは、聖母マリアの取次ぎにより罪人やカトリック教会に敵対する人物、特にフリーメーソンを改心させるために働く聖母の騎士(ミリシャ・インマクラータ)を創立する契機となった。改心という目標に対して彼は非常に真剣であり、不思議のメダイの祈りの後にさらに付け加えた。原罪なくして宿り給いし聖マリア御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え。「また、御身により頼まざる人々、特に教会に敵対せし人々、かつ我等が御身に依り頼む全ての人々が為に祈り給え」[12]

1917年10月16日に、6人の志願者と共に神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を創立した[13]クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤めたが、ローマで感染した結核のため1920年8月から1921年4月まで保養地のザコパネで療養生活を送っている[14]
無原罪の聖母の騎士ポーランド語版『無原罪の聖母の騎士』

その後、出版による布教活動を志したコルベは1922年に初めて『無原罪の聖母の騎士』(Rycerz Niepokalanej)を執筆し出版した。部数は5,000部で、執筆者は神父一人であった[15]。同年にグロドノの修道院に移り、当地での出版活動を開始した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef