マカオの歴史
[Wikipedia|▼Menu]
Vue generale de Macau - オーギュスト・ボルジェ (1808-1877) が描いた19世紀のマカオ1639年のマカオ16世紀のイエズス会士たちは宣教の拠点としてマカオを利用したドイツによる1888年の香港、マカオ、広東の地図

マカオの歴史(マカオのれきし)では、マカオ歴史について述べる。
政治史

マカオにポルトガル人が到来し、中国王朝との交易に乗り出すのは16世紀初めの1513年のことである。当初は東南アジア植民地から中国近海に来航していたポルトガル人は、マカオに居留地を確保し、中国や日本に対する貿易拠点とした。マカオはまた日本や中国に対するカトリック教会の布教の拠点でもあり、日本の禁教後はマテオ・リッチなどのイエズス会宣教師を北京に送り込んでいた。

しばしば「海賊討伐で明に協力した代償として、1557年ポルトガル領マカオ植民地が成立した」と書かれるが、これはポルトガル側の主張であり、中国側で確認できる史料はない[1]。中国側の史料である『廣東通志(中国語版)』には、1553年にポルトガル人が汪柏(中国語版)という役人に賄賂を贈り、上陸と居住の許可を得たのがきっかけであるという記載がある[2]

また、この時点ではポルトガルはマカオの居留権を認められたにすぎない。明および続くの時代を通じてマカオは中国が領土主権を有し、1845年までは中国の税関が設置され、中国の官吏がマカオ内に自由に出入りしていた。

ポルトガル側の行政機構としては、インド副王が治めるポルトガル領インドに属し、カピタン・モール(Capitao Mor)が責任者であった。1583年に市(cidade)に昇格し、翌年には議会設置が承認された。カトリックの布教区では、1579年にマカオ司教区が独立した。後述のように日中中継貿易の拠点として繁栄したことが有名だが、ベトナムなどインドシナへの貿易・布教への拠点でもあった。

17世紀の明清交代期には、清が台湾の鄭氏政権対策として遷界令を発して貿易を禁じ、また日本も鎖国をひいてポルトガル船を締め出したために、一時期マカオは没落した。また、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態にあり(スペイン帝国)、これによりオランダとの間でマカオの戦いも起きた。また、1640年ポルトガル王政復古戦争など、本国の動乱により海外拠点の経営の弛緩が見られた。その後、鄭氏が清に降伏すると貿易は再開される。

ポルトガルがマカオの行政権を中国人官吏から奪取し、ここを完全に植民地化したのは1849年のことで、アヘン戦争によってイギリスが香港植民地を獲得したのに刺激されたものであった。その後、1862年になって初めて中国(清)もマカオにおけるポルトガル統治権を認め、1887年中葡和好通商条約を締結してマカオを第三国に譲渡しないことを条件に永久的に占有することを承認した。注目すべきは、ポルトガルが得たのはあくまで統治権のみであり、マカオの主権はあくまで中国(清)側にあった点である。このことから、「マカオは史上かつてポルトガル領になったことは一度もない」とも言えることになる。

第二次世界大戦では、ポルトガルが中立を宣言したためにマカオは東アジアにおける中立港となり、経済的には繁栄したものの日本中華民国の戦闘が続いたことから中国人の難民が大量に流入した。国共内戦が終結し中国国民党台湾島に遷都した後の1951年にポルトガルはマカオを海外県とし、ポルトガル系住民支配のもとで植民地支配を続けようとしたが、反共主義者であったアントニオ・サラザール首相による独裁政権下にあったこともあり、中華人民共和国との国交は持たないままであった。1966年中国共産党系住民による反ポルトガル闘争(一二・三事件)が巻き起こり、サラザール政権は中華人民共和国の要求を全面的に受け入れてマカオは事実上その影響下に入り[3]、「マカオの王」「マカオの影の総督」[4]と呼ばれた親中派実業家の何賢(中国語版)の影響力は絶大なものになり[5]ポルトガルの植民地戦争が起きていたアフリカのポルトガル植民地とは対照的に政情は安定していた[5]

マカオ暴動以降、中華人民共和国側からの影響と返還の圧力が高まる中、1974年にポルトガル本国でカーネーション革命が起こって政権交代が実現し、左派系の新政権は海外植民地の放棄を掲げ、中華人民共和国側にマカオの返還も提案するも中華人民共和国はこれを拒否した[6]。これを受け、1976年にポルトガルはマカオを海外県から特別領に改め、立法会を設置するなど、行政における本国からの大幅な独立性を認めることにした[7]

1979年には中華人民共和国とポルトガルの国交が樹立されるにあたり、マカオの本来の主権が中華人民共和国にあることが確認された。しかし、同じく海外領土下にある香港市民の動揺を恐れた中華人民共和国政府は、マカオの主権を主張しつつ、当分の間のポルトガルによる統治を希望したと言われており、主権と統治権(行政管理権)を分離した形を取ることを希望した形となり、これにより返還は遅れ、「アジア最後のヨーロッパ植民地」と呼ばれることとなった[8][9][10][11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef