この項目では、ドイツの都市について説明しています。軽巡洋艦については「マインツ (軽巡洋艦)」をご覧ください。
紋章地図
基本情報
連邦州:ラインラント=プファルツ州
郡:郡独立市
217,556人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:2,226 人/km2
郵便番号:55116?55131
市外局番:06131, 06136
ナンバープレート:MZ
自治体コード:
07 3 15 000
行政庁舎の住所:Jockel-Fuchs-Platz 1
55116 Mainz
ウェブサイト:www.mainz.de
首長:ミヒャエル・エプリング (Michael Ebling)
州内の位置
地図
復元されたローマ時代の建造物マインツ河川港 1840年頃 第二次大戦で破壊された教会 マインツの街並み上空から 左側がマインツ
マインツ(独: Mainz [ma??nt?s] ( 音声ファイル))は、ドイツ連邦共和国の都市。ラインラント=プファルツ州の州都。中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。一時フランス領であった時期には、フランス語のマイヤンス(仏: Mayence [ma.j??s])の名で呼ばれた。ラインガウ(Rheingau)とプファルツ(Pfalz)のワインの集散地であり、当地産のスパークリング・ワイン「クプファーベルク」(Kupferberg)は特に有名である。楽譜出版で著名なショットもこの地にある。ローレライはじめ様々な伝説に彩られた風景や古城の景色を楽しめるライン下りの観光船はマインツを出港地としている。ビンゲンからコブレンツまでの「ライン渓谷中流上部」(Das Obere Mittelrheintal)は2002年ユネスコ文化遺産に登録された。赤地に白の車輪(Weise Rader im roten Schild)を表わす市の紋章は、伝説によれば、1009年に司教に選任されたヴィレギス(Willegis)の故事に由来する[2]。 マイン川とライン川の合流点に位置し、河川交通の要衝である。そのため、いくたびか深刻な洪水による被害を受けており、近年でも1995年に大規模な洪水被害を受けた。近隣の都市としては、ヴィースバーデン、ダルムシュタット、そしてフランクフルト・アム・マインなどが挙げられる。 マインツは方言地図上、中部ドイツ語(Mitteldeutsch)のうちの「西中部ドイツ語」(Westmitteldeutsch)、その中の「ラインフランケン方言」(Rheinfrankisch)の地域に属する[3] 。 市の中心地、グーテンベルク広場(Gutenbergplatz)には、北緯50度を示す線が、敷石に示されている。 元来ケルト人の居住した地に、紀元前1世紀後半、ローマ帝国が築いた軍事拠点であるモゴンティアークム(ラテン語: Mogontiacum)がその起源とされる。当初は、周辺地域に集落が点在していたと考えられるが、ゲルマン人の侵入が激化する中でそれらが集結、市壁の建設が進められた。この大規模な軍駐屯地は「都市的な特色をも帯びるように」なった[4]。帝国末期、属州ゲルマニア・スペリオルの州都となった。 多くの神殿や、古代のアルルや リオンの劇場に匹敵する、 13000人以上の観客を収容できるほどの大規模な劇場もあったが[5]、現存するローマ時代の遺跡としては、いわゆる「ジュピター柱」(Jupitersaule)をはじめとする建造物をライン中流域・州立博物館(Das Mittelrheinische Landesmuseum)に、フィンテン(Finthen;地名は「泉」の意味)近傍の水源地からマインツにまで延びていた8qの水道の設備跡をツァールバハ(Zahlbach)の谷に見ることができる[6]。20世紀に入ってから、マインツ南駅(現在のマインツローマ劇場駅)の隣接地でローマ時代の劇場跡が発見され、発掘が続けられている。発掘済みの一部分は駅構内からも見ることができる。 5世紀末、フランク王国の支配下に入った[7]。8世紀半ば、ボニファティウスがマインツの司教に就任してから、マインツはドイツにおける信徒全体を統括する首位大司教座の役割を担った。カール大帝は813年「帝国内の五つの都市で教会会議を開催し、民衆の「理解」できるような仕方で説教を行うことを聖職者に命じた」が、「マインツでは「神の言葉は俗衆が理解しうるような仕方で説教すべし」、すなわち「ラテン語説教をゲルマン語に訳すべし」と定めている[8]。カール大帝は帝国の聖俗諸侯に命じてマインツの「太鼓大橋」を完成させたが、「船を渡して不正な儲けを盗みとろうと企てた悪漢どもの陰謀により、この橋は破壊されてしまった」(ノートカー)[9]。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の死によってリーウドルフィンガー家(リウドルフィング家)(Liudolfinger;ザクセン朝、オットー朝)が途絶えると、1024年7月4日コンラートがローマ王に選ばれたが(ザリエル朝、ザーリアー朝)、その際マインツ大司教が大きな働きをし、王の戴冠式もマインツで挙行された[10]。中世を通じて、マインツ大司教はドイツ内での有力諸侯としての地位を保ち[11]、1356年に成立した金印勅書の中では、7人の選帝侯のうちの1人と位置付けられている。「マインツ大司教は神聖ローマ帝国の大官房長であり、皇帝を選挙する選帝侯の首席であり、諸侯や諸都市の会議である帝国議会の議長であり、要するに帝国で皇帝に次いで位の高い存在であった」[12]。13世紀末ごろ(1283/89?)に成立した中高ドイツ語文学『ローエングリーン』では、マインツ大司教は、カール大帝の定めた七選帝侯の第一に「ドイツ管轄帝国尚書」として挙げられている[13]。 マインツはしばしば帝国会議(皇帝・王主催の諸侯会議)の会場となった。ドイツ中世史の栄光の頂点に立ったフリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)(バルバロッサ)が、1184年の聖霊降臨祭に催した息子たちの騎士叙任式の祝祭、1188年断食期間中に皇帝が十字軍遠征を誓い、「イエス・キリストの宮廷会議」(≪Hoftag Jesu Christi≫)と呼ばれた[14]大帝国会議はとくに有名である[15]。1184年の祝祭[16]は、中世ドイツ宮廷文学の創始者ハインリヒ・フォン・フェルデケが『エネイーデ』(ドイツ語版「エネアス物語」)において称揚している[17]。13世紀末ごろ(1283/89?)に成立した中高ドイツ語文学『ローエングリーン』では、ブラバントのエルザのために戦う白鳥の騎士とフリードリヒ・フォン・テルラムントとの決戦がマインツで行われたようにほのめかされているが[18]、この設定もフリードリヒ・バルバロッサがマインツで催した有名な祝宴に肖ったのかもしれない。 1115年マインツの都市住民は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に迫って、皇帝に捕縛されていた大司教アーダルベルトを釈放させ、1119/20年には大司教がこれに感謝し、住民に対して、「外部の裁判所に呼び出されないこと、貢租を賦課されないことを保証」している[19]。 「マインツでは、面積105ヘクタールを囲む広大なローマ末期の周壁環が中世全期を通じてこの都市の住民を包み込んでいる」[20]。オットー3世の時代(983-1002)、マインツの市場はドイツ国内で最も重要な市場として「その市場慣習はボーデン湖からザクセンに至るまでの地域に知られていた」[21]。当時マインツを訪れた人の記録には、この「非常に大きな都市」に「東洋の東のはずれにのみ産出する香辛料」が見られることに驚嘆する記述がある[22]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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