マイルズ・ランプソン_(初代キラーン男爵)
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イギリス政治家初代キラーン男爵
マイルズ・ランプソンMiles Lampson
1st Baron Killearn

生年月日1880年8月24日
出生地 イギリス
スコットランドスターリング・キラーン(英語版)
没年月日 (1964-09-18) 1964年9月18日(84歳没)
死没地 イギリス
イングランドイースト・サセックスヘイスティングス
出身校イートン校
称号初代キラーン男爵聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)、バス勲章コンパニオン(CB)、枢密顧問官(PC)
配偶者先妻レイチェル(旧姓フィップス)
後妻ジャクリーン(旧姓カステラーニ)
エジプト高等弁務官(英語版)
在任期間1933年 - 1936年
駐エジプト大使(英語版)
在任期間1936年 - 1946年
貴族院議員
在任期間1943年5月17日 - 1964年9月18日[1]
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初代キラーン男爵マイルズ・ウェダーバーン・ランプソン(: Miles Wedderburn Lampson, 1st Baron Killearn, GCMG, CB, MVO1880年8月24日 - 1964年9月18日)は、イギリスの外交官、政治家、貴族。

第二次世界大戦中にイギリスの半植民地エジプトの実質的な統治者だった。北アフリカ戦線でのドイツ軍の快進撃に刺激されてエジプトの反英民族主義機運が高まった際、これを弾圧して反英民族主義内閣の樹立を阻止した。しかしその強引なやり口はエジプト民族主義運動の反発を招き、戦後のエジプト革命とスエズ戦争を招く。
経歴1941年のカイロの英国大使館。本国の中東担当大臣オリヴァー・リトルトン(右)とともに

1880年8月24日に初代準男爵カーティス・ミランダ・ランプソン(英語版)の三男でサリー州やロンドンの治安判事を務めたノーマン・ランプソンとその妻ヘレン(旧姓ブラックバーン)の間の次男としてスコットランドスターリング・キラーン(英語版)に生まれた[2][3][4]

イートン校を卒業[2][4]1903年に外務省に入省[2][4]

1906年に、明治天皇へのガーター勲章使節団の一員として来日した[5]

中華民国日本などアジア諸国での勤務が多かった[2]1920年にはシベリア高等弁務官(High Commissioner to Siberia)に就任した[4]1926年から1933年にかけては中華民国駐在の特命全権公使(envoy extraordinary and minister plenipotentiary)を務める[4]

1933年12月にマクドナルド挙国一致内閣が成立するとエジプト高等弁務官(High Commissioner to Egyp)とスーダン高等弁務官(High Commissioner to Sudan)に就任。1936年からはエジプト大使となる[2]。エジプトは形式的には独立国だったが、1882年に英軍に占領されてからというもの実質的にはイギリス支配下にあったため、彼がエジプトの統治者も同然であった[6]

1936年に即位した若いエジプト国王ファルーク1世は他のイギリス支配下のアラブ諸国の国王と同様にイギリスの傀儡王となるための教育を受けて育ったが、彼は大英帝国の力の衰えを見抜いていた。ランプソンはファルークを「あの子」と呼んで、はじめは恩着せがましく、後には軽蔑的な態度で接したが、ファルークはしばしばこれを鼻であしらってイギリスに反抗的な態度を取るようになっていった[7]

とりわけ第二次世界大戦中にロンメル元帥率いるドイツ軍がカイロに迫った際、ファルークはイギリス軍をエジプトから叩き出すチャンスが来たと見て反英内閣の樹立を決意した。しかしこれに焦ったランプソンは、1942年2月にファルークに対してムスタファ・エル・ナハス(英語版)を首相とするイギリス傀儡内閣を樹立することを要求した。ファルークがこれを拒否すると宮殿を英軍に包囲させ、もし要求に応じないなら英軍はファルークを拉致し、紅海上の巡洋艦に幽閉するという脅迫を行った。結局この脅迫を恐れたファルークが譲歩し、ナハス内閣が樹立されることになった[8][9]

エジプト反英民族主義運動の弾圧を本国のチャーチルから高く評価され[10]1943年5月17日には連合王国貴族キラーン男爵に叙せられた[4][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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