マイケル・ファラデー
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「ファラデー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ファラデー (曖昧さ回避)」をご覧ください。

マイケル・ファラデーMichael Faraday
トーマス・フィリップスによる肖像画(1841-1842)[1]
生誕1791年9月22日
グレートブリテン王国
イングランド、ニューイントン・バッツ
死没 (1867-08-25) 1867年8月25日(75歳没)
イギリス
イングランドロンドンハンプトン・コート宮殿
居住 イギリス
国籍 イギリス
研究分野物理学化学
研究機関王立研究所
主な業績ファラデーの電磁誘導の法則
電気化学
ファラデー効果
ファラデーケージ
ファラデー定数
ファラデーカップ
ファラデーの電気分解の法則
電気力線
影響を
受けた人物ハンフリー・デービー
William Thomas Brande
主な受賞歴ロイヤル・メダル (1835, 1846)
コプリ・メダル (1832, 1838)
ランフォード・メダル (1846)
署名
プロジェクト:人物伝
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マイケル・ファラデー(: Michael Faraday、1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イギリス化学者物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。

直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則反磁性電気分解の法則などを発見。磁性が光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした[2][3]。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。

化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブンゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノードカソード電極 (electrode)、イオンといった用語はファラデーが一般化させた。

ファラデーは貧しい家庭に生まれたため、小学校も中退という教育しか受けておらず、高度な数学などは分からなかったが、科学史上、最も影響を及ぼした科学者の1人とされ、科学史家[4]は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる[5]

静電容量のSI単位「ファラド (F)」はファラデーにちなんでいる。また、1モルの電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデーの電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。

ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 (Fullerian Professor of Chemistry) であり、死去するまでその職を務めた。

アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートンマクスウェル肖像を貼っていたという[6]

ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派(グラス派)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している[7]
前半生

ジョージ3世時代の1791年に、ニューイントン・バッツ[8]で生まれる。現在のサザーク・ロンドン特別区の一部だが、当時はサリーの一部でロンドン橋から南に1マイルほどの場所だった[9]。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在のカンブリア)のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた[注釈 1]。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない[10]。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた ジョージ・リーボー のところに年季奉公に入った[11]。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中にはアイザック・ウォッツの The Improvement of the Mind もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本としてジェーン・マーセットの『化学談義』(Conversations on Chemistry)があった[12]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵マスケリエはファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている[要出典]。

1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、ジョン・テイタム の創設したロンドン市哲学協会(City Philosophical Society)の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者ハンフリー・デービーの講演を何度も聴講した。その入場券はロイヤル・フィルハーモニック協会の創設者の1人 ウィリアム・ダンス がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。


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