マイケル・ヒックス・ビーチ_(初代セント・アルドウィン伯爵)
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イギリス政治家初代セント・アルドウィン伯爵
マイケル・ヒックス・ビーチMichael Hicks Beach
1st Earl St Aldwyn
1876年から1884年頃のヒックス・ビーチ
生年月日1837年10月23日
出生地 イギリス ロンドン
没年月日 (1916-04-30) 1916年4月30日(78歳没)
死没地 イギリス ロンドン
出身校オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党保守党
称号初代セント・アルドウィン伯爵枢密顧問官(PC)、アイルランド枢密顧問官(英語版)(PC (Ire))
配偶者ルーシー(旧姓フォーテスキュー)
植民地大臣
内閣第二次ディズレーリ内閣
在任期間1878年2月4日 - 1880年4月18日[1]
財務大臣
内閣第一次ソールズベリー侯爵内閣
第三次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間1885年6月24日 - 1886年1月26日[1]
1895年6月28日 - 1902年7月11日[1]
通商大臣(英語版)
内閣第二次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間1888年2月 - 1892年8月[1]
庶民院議員
選挙区イースト・グロスターシャー選挙区(英語版)
ブリストル・ウェスト選挙区(英語版)[2]
在任期間1864年7月12日 - 1885年11月24日
1885年11月24日 - 1906年1月12日[2]
貴族院議員
在任期間1906年1月12日 - 1916年4月30日[2]
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初代セント・アルドウィン伯爵マイケル・エドワード・ヒックス・ビーチ(: Michael Edward Hicks Beach, 1st Earl St Aldwyn, PC, PC (Ire)、1837年10月23日 - 1916年4月30日)は、イギリスの政治家、貴族。

ヴィクトリア朝後期の保守党政権で閣僚職を歴任した。
目次

1 経歴

2 人物

3 家族

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

6 外部リンク

経歴

1837年10月23日ロンドンのセント・ジョージ・ハノーヴァー・スクウェア(英語版)に生まれる。父はサー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵(英語版)、母はその夫人ハリエッタだった[3]

イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学した[4]

1864年から1885年にかけてイースト・グロスターシャー選挙区(英語版)、ついで1885年から叙爵される1906年までブリストル・ウェスト選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務めた[2]

保守党に所属し、第二次ディズレーリ内閣でははじめアイルランド担当大臣(英語版)として入閣したが、1878年には露土戦争の対応をめぐってディズレーリの親トルコ方針に反対して辞職した親露派閣僚カーナーヴォン伯爵の代わりに植民地大臣に就任した。ヒックス・ビーチは徹底した反ロシア派であった[5]。ヒックス・ビーチは南アフリカ情勢にほとんど関心がなく、また電信技術の不十分さもあって、英領ナタール(英語版)行政府高等弁務官(英語版)サー・ヘンリー・バートル・フレア(英語版)との意思疎通がうまくいっていなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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