イギリスの政治家初代セント・アルドウィン伯爵
マイケル・ヒックス・ビーチMichael Hicks Beach
1st Earl St Aldwyn
1876年から1884年頃のヒックス・ビーチ
生年月日1837年10月23日
出生地 イギリス ロンドン
没年月日 (1916-04-30) 1916年4月30日(78歳没)
死没地 イギリス ロンドン
出身校オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党保守党
称号初代セント・アルドウィン伯爵、枢密顧問官(PC)、アイルランド枢密顧問官
初代セント・アルドウィン伯爵マイケル・エドワード・ヒックス・ビーチ(英: Michael Edward Hicks Beach, 1st Earl St Aldwyn, PC, PC (Ire)、1837年10月23日 - 1916年4月30日)は、イギリスの政治家、貴族。
ヴィクトリア朝後期の保守党政権で閣僚職を歴任した。
目次
1 経歴
2 人物
3 家族
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 外部リンク
経歴(英語版)に生まれる。父はサー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵(英語版)、母はその夫人ハリエッタだった[3]。
イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学した[4]。
1864年から1885年にかけてイースト・グロスターシャー選挙区(英語版)、ついで1885年から叙爵される1906年までブリストル・ウェスト選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務めた[2]。
保守党に所属し、第二次ディズレーリ内閣でははじめアイルランド担当大臣(英語版)として入閣したが、1878年には露土戦争の対応をめぐってディズレーリの親トルコ方針に反対して辞職した親露派閣僚カーナーヴォン伯爵の代わりに植民地大臣に就任した。ヒックス・ビーチは徹底した反ロシア派であった[5]。ヒックス・ビーチは南アフリカ情勢にほとんど関心がなく、また電信技術の不十分さもあって、英領ナタール(英語版)行政府高等弁務官(英語版)サー・ヘンリー・バートル・フレア(英語版)との意思疎通がうまくいっていなかった。