マイク・シュミット
Mike Schmidt
マイケル・ジャック・シュミット(Michael Jack Schmidt, 1949年9月27日 - )はアメリカ合衆国オハイオ州デイトン出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。
キャリアの全てをフィラデルフィア・フィリーズで過ごしたフランチャイズ・プレイヤーである。通算548本塁打は三塁手として歴代最多。またナ・リーグ最多の本塁打王8回、エディ・マシューズに並びナ・リーグ歴代最長タイとなる9年連続30本塁打といった記録も残している。守備も堅実でゴールドグラブ賞を10回受賞。史上最高の三塁手とも称される[1][2]。 1971年ドラフト2巡目(全体30位)でフィラデルフィア・フィリーズに入団。1972年9月12日にメジャーデビューを果たし、同年13試合に出場。翌1973年には132試合に出場し、三塁手のレギュラーに定着。しかし、打率.196の低打率に終わり、シーズン終了後にプエルトリコのウィンターリーグで、当時フィリーズの監督だったダニー・オザーク
経歴
1974年6月10日、アストロドームで行われた対アストロズ戦では打球が本塁から329フィート(約100m)、地上35フィート(約10m)の天井からつるしてあったスピーカーに直撃。ボールはフィールドに落下し、グラウンドルールによりインプレーとなった[1]。36本塁打を放ち初のナショナルリーグ本塁打王となり、以後、1976年まで3年連続でナ・リーグ本塁打王となった。1975年4月には当時のMLBタイ記録に並ぶ11本塁打を記録[3]。1976年4月17日のカブス戦では1試合4本塁打を記録。シュミットに本塁打を打たれた投手の内訳を見ると、最初の2本がリック・ラッシェル、3本目はマイク・ガーマン、そして4本目はポール・ラッシェルと、リックとポールのラッシェル兄弟から3本の本塁打を放っている。試合は3回終了時に13-1でカブスがリードしていたが、延長10回にシュミットの本塁打で、18-16でフィリーズの勝利となった[4]。
1980年には、打率.286、48本塁打、121打点で二冠王となりフィリーズの地区優勝に大きく貢献。満票で初のナ・リーグMVPに選出される。同年のワールドシリーズでもフィリーズ初の世界一に貢献し、シリーズMVPにも輝いた。1981年は50日間に及ぶストライキのためシーズンが短くなったが、102試合出場で、打率.316、31本塁打、91打点で昨年に続き二冠王となり、ナ・リーグMVPに選出された。1983年は、打率.255、40本塁打、109打点を記録し、3年ぶりに40本塁打・100打点を達成。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは20打数1安打に終わり、チームは1勝4敗で敗れた。シーズン終了後には年俸210万ドルの4年契約に合意。リック・シューが三塁手、シュミットは一塁手として1985年は出場したが、1986年からは再び三塁手として出場。1986年は、打率.290、37本塁打、119打点で二冠王となり、5年ぶり3回目のナ・リーグMVPに選出された。
1988年、右肩を痛め、打率.249、12本塁打、62打点の成績に終わり、シーズン終了後に右肩の手術を受けた[2]。しかし、肩の回復が思わしくなく、1989年5月29日、涙ながらに現役引退を表明[2]。同年のMLBオールスターゲームのファン投票でナ・リーグ三塁手として最多票を集めた。規定により出場はできなかったが、史上初めて引退選手がオールスターに選出された[2]。シュミットの背番号「20」。
フィラデルフィア・フィリーズの永久欠番に1990年指定。
翌1990年5月26日、フィリーズはシュミットの在籍時の背番号『20』を永久欠番に指定した。1995年、資格取得1年目でかつてのフィリーズの先輩であるリッチー・アシュバーンとともにアメリカ野球殿堂入り。
引退後は解説者活動を主に行うが、2002年よりフィリーズのスプリング・トレーニングでのアドバイザースタッフとして後進の指導を行うほか、2003年より2シーズン、フィリーズ傘下のA級マイナーリーグチーム、クリアウォーター・スレッシャーズで監督を務め、2009年のワールド・ベースボール・クラシックのアメリカ代表チームでもコーチを務めた。
2006年、フィリーズの後輩にあたるライアン・ハワードが、58本塁打、149打点で二冠王に輝いた。それについてシュミットは、地元紙のインタビューに「ハワードの大ファンになってしまった」と公言している。 年
詳細情報
年度別打撃成績
度球
団試
合打
席打
数得
点安
打二
塁
打三
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗