マイクロソフトの歴史
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この項目「マイクロソフトの歴史」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:History of Microsoft)
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マイクロソフトの歴史(マイクロソフトのれきし)では、多国籍のコンピュータ技術会社であるマイクロソフトの歴史について記す。マイクロソフトの事業の源流は、1975年にBASICインタプリタの開発をはじめたことにある。現在の最主力商品はMicrosoft Windowsオペレーティングシステムおよび生産性向上ソフトウェアMicrosoft Officeシリーズである。現在ではマイクロソフトは、年商442億8000万米ドル、102の国において従業員7万6000人を抱え、全体的に成功しており、コンピュータ・デバイスのための各種ソフトウェア製品を広範囲に開発、製造、ライセンス販売を行っている。
1975年-1978年:マイクロソフトの設立

ポピュラーエレクトロニクス」1975年1月号に掲載されたAltair 8800の紹介記事を読んだビル・ゲイツポール・アレンは、その新しいマイクロコンピュータの製造者であるMITSに電話をし、Altair向けBASIC言語インタプリタの実装のデモンストレーションをしたいと提案した。ゲイツの手元にはインタプリタもAltairシステムもなかったが、ゲイツはハーバード大学のコンピュータセンターに設置されていたPDP-10を用いたエミュレーションにより、ポール・アレンと共にインタプリタを開発した。実際には、アレンがAltairに搭載されているCPUであるIntel 8080のマニュアル等を元にAltair8800のエミュレータを開発し、主としてビル・ゲイツがその上で動くBASICインタプリタを書く形で開発が進められた[1]。BASICインタプリタの開発には8週間を要した[2]

アレンは開発したBASICインタプリタを、ニューメキシコ州アルバカーキにあるMITSに持ち込みデモンストレーションを行った。このデモについては「一度で完璧に動いた」[3]「初回のデモではインタプリタは一瞬動作した後に停止してしまった」[1]など、文献によって異なる見解が見られるが、いずれにせよ数日のうちにはバグはほぼ解消されインタプリタは概ね動作するようになった[1]。これをうけて、MITSはAltair BASICとして配布することを決定した。

1975年4月、アレンは当時勤めていたハネウェルを退社し、MITSの社員となった。これに対し、ゲイツは、ハーバード大学の学生のままであった。大学が夏休みになると、ゲイツもアルバカーキにやってきてBASICの改良を手伝ったが、9月にはハーバード大学に帰っていった[4][5]。翌1976年も、春学期、秋学期共にビル・ゲイツはハーバード大学におり、学休期間中にアルバカーキに行っていた[6][7]

アレンがMITSの社員となった1975年4月をもってマイクロソフト社が創業されたとされることがあるが、実際には1975年4月の段階では、マイクロソフトという名前すら存在せず、そのような法人も存在していない。実際、1975年7月に、MITSとの間でBASICインタプリタに関する契約書がかわされたときには、契約の当事者は法人としてのMITSと個人であるアレンおよびゲイツであり、契約書にマイクロソフトという名称は出てこない[8]。マイクロソフト(マイクロコンピュータソフトウェアとのかばん語)という名称は、アレンが、1975年7月に考えだした[9]。文書に残る記録としては、1975年10月にMITS社長のエド・ロバーツがアルテアの広報誌「コンピュータ・ノート」のために書いた記事内にマイクロソフトの名称が確認されるのが初出である[10]。この時点では、Micro-softとハイフンを含む名前であった。このころのマイクロソフトは、ゲイツとアレンが私的につけたチーム名にすぎない[9]

マイクロソフトをパートナーシップによる経営として、ゲイツとアレンが正式に契約書を交わしたのは、1977年の2月である[11]。この時点でも、マイクロソフトはあくまでもゲイツとアレンによるパートナーシップによる経営体であり、法人ではないため、正式にはマイクロソフト「社」ではない(最終的にマイクロソフトが株式会社となって法人化するのは、1981年である)。なお、このころ(1977年2月)ゲイツはハーバード大学を休学してソフトウェア事業に専念することを決意するが、その代償として、パートナーシップ経営体に対する自身の取り分(株式会社での株の持ち分に相当)を64%とすることをアレンに了承させている[11]。(もともと、それ以前の非公式な段階では、ゲイツはMITSの社員ではなく給料をもらわないことや、BASIC自体の開発は主としてゲイツが行いアレンはエミュレータ開発が主であったことなどを主張して、BASICに対するライセンス料の分配をゲイツが60%とすることをアレンに了承させた経緯があったが[12][13]1977年2月に再度改訂したものである。)

アメリカの法律では、パートナーシップの形成にあたって登記等は必要ないため、パートナーシップとしてのマイクロソフトの設立が正確にいつであるかを特定するのは難しいが、契約書の形で確認できるのは1977年2月である。それ以前には非公式な口約束に基づく曖昧な状態であったとされる[12][11]

マイクロソフトはMITS以外の会社からも依頼を受け、様々なマイコン向けにBASICインタプリタを開発・供給するようになったため、マイクロソフトのBASICを独占したいと考えていたMITSとは次第に疎遠になり、結局裁判により1977年9月にMITSとマイクロソフトの契約は無効と認定され打ち切られた[14]

マイクロソフトの最初の国際オフィスは1978年11月1日に日本に「アスキーマイクロソフト」(現在は日本マイクロソフト)の名称で設立された。これに先立つ1978年6月に、アスキーの創業者である西和彦がアルバカーキのゲイツのもとを訪れており、と意気投合したゲイツは西和彦をマイクロソフト本社の副社長として迎えた。西和彦は結局1986年までマイクロソフトの副社長を務め、日本におけるマイクロソフトBASICの普及を担っただけでなく、MSXなどの規格を主導していくことになる。


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