マイアミ・デイド郡_(フロリダ州)
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フロリダ州マイアミ・デイド郡

郡旗

郡のフロリダ州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1836年1月18日
郡名の由来フランシス・デイド
郡庁所在地マイアミ
最大都市マイアミ
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
6,297 km2 (2,431.18 mi2)
4,915 km2 (1,897.72 mi2)
1,382 km2 (533.47 mi2)
推計人口
 - (2020年)
 - 密度
2,701,767人

標準時東部: UTC-5/-4
ウェブサイト ⇒www.miamidade.gov

マイアミ・デイド郡(マイアミ・デイドぐん、: Miami-Dade County)は、アメリカ合衆国フロリダ州フロリダ半島南端東に位置するである。通常多様な名前で呼ばれることが多い。マイアミ、マイアミ・デイド、デイド郡、デイド、メトロ・デイド 、グレーターマイアミなどである。人口は270万1767人(2020年)[1]で、フロリダ州の郡では最大であり、全米でも第7位である。陸地面積は1,946平方マイル (5,040 km2) あり、州内第3位になっている[2]郡庁所在地マイアミ市である。郡内にはマイアミ大都市圏人口の約半数が住み、大規模都市の幾つかが含まれている。

郡内には35の法人化都市と多くの未編入領域がある。北部、中部、東部は都市化が進み、海岸線には高層ビルが建ち並び、南フロリダのマイアミ市中心街中央事業地区となっている。郡南部にはレッドランドやホームステッド地域があり、農業地帯になっている。レッドランドは郡内陸地のおよそ3分の1に相当している。人口が少なく、都市化の進んだ北部と対照的である。郡西部がエバーグレーズ国立公園の中に入り、ミクースキー族の集落にのみ人が住んでいる。本土の東にはビスケーン湾があり、ビスケーン国立公園とビスケーン湾水上保護地となっている。
歴史
ヨーロッパ人による接触以前

マイアミ地域におけるインディアン定着の痕跡は約12,000年前のものとされている[3]。初期住人はマイアミ川の両岸に入ったが、主な集落は北岸にあった。

ヨーロッパ人が接触した時の住人はテケスタ族であり、現在のマイアミ・デイド郡、ブロワード郡およびパームビーチ郡南部を含むフロリダ州南東部の大半を支配していた。テケスタ族は釣りや猟を行い、果樹や植物の根を集めていたが、農業は行っていなかった。死人の小さな骨を遺骸と共に埋め、大きな骨は村人が見ることができるよう箱に収めた。テケスタ族はマイアミ・サークル遺跡を作ったとされている[4]
ヨーロッパ人による接触

1513年、ビスケーン湾に入ってきたフアン・ポンセ・デ・レオンが、この地域を訪れた最初のヨーロッパ人とされている。その日誌には、テケスタの変化形である「チェケシャ」に到着したと記録しており、それがマイアミで最初に記録された名称となった[5]。デ・レオンが岸に上陸したか、あるいはインディアンと接触したかは不明である。1566年、ペドロ・メネンデス・デ・アビレスとその隊員が、前年に船が難破して行方不明になっていたアビレスの息子を捜している時に、テケスタ族の集落を訪れたのが最初の上陸記録だった[6]。1年後にフランシスコ・ビラレアル神父に率いられたスペイン兵がマイアミ川河口にイエズス会伝道所を建てたが、短命に終わった。スペイン人が去った後、テケスタ族は天然痘などヨーロッパ由来の疫病から自分達を守る必要があった。1711年、テケスタ族は1組の酋長をキューバハバナに送り、そこに移民が可能かを尋ねさせた。キューバ人は彼等を援助するために2隻の船を派遣したが、スペイン人由来の病気でインディアンの大半が死亡していた[7]

19世紀初め、最初の恒久的ヨーロッパ人開拓者が到着した。バハマ諸島からフロリダ南部とフロリダ・キーズに来た人々は、危険なグレート・フロリダ・リーフで座礁した船から宝物を探した。そのある者はマイアミ川沿いにスペインが提供する土地を受け入れた。同じ頃、セミノール族インディアンが逃亡奴隷の集団と共に入ってきた。この地域では第二次セミノール戦争が起こり、ウィリアム・S・ハーニー少佐が何度かインディアンに対する襲撃隊を率いた。非インディアンの住人の大半はダラス砦に駐屯する兵士だった。セミノール戦争はアメリカ史の中でも犠牲の多いインディアン戦争となり、マイアミ地域ではインディアンのほぼ全数が消滅した。

1842年に第二次セミノール戦争が終わると、ウィリアム・イングリッシュがマイアミ川沿いに、叔父が造っていたプランテーションを再開させた。マイアミ川南岸に「マイアミ村」を計画し、土地の区画を販売した。1844年、マイアミの町が郡庁所在地となり、その6年後の国勢調査では人口96人となっていた[8]。第三次セミノール戦争は第二次ほど破壊的なものではなかった。それでもフロリダ南東部への入植を鈍化させた。終戦時にここにとどまる兵士もいた。
デイド郡の設立ジュリア・タトル、マイアミの設立者マイアミ市中心街のフラグラー通り、第二次世界大戦の終戦から20分後

デイド郡はアメリカ合衆国の準州法の下に1836年1月18日に設立された。郡名は第二次セミノール戦争中の1835年に戦死した軍人フランシス・デイドに因んで名付けられた。その死没地はデイド戦場と名付けられた。郡設立時には現在のパームビーチ郡ブロワード郡の領域を含み、さらにバヒア・ホンダ・キーから北のフロリダ・キーズも入っていた。郡庁所在地は当初、フロリダ・キーズのインディアンキーに置かれ、1844年にマイアミに移された。1866年キーラーゴからバヒア・ホンダまでのフロリダ・キーズがモンロー郡に戻された。1888年、郡庁所在地が現在のジュノビーチに近いジュノに移されたが、翌1889年にはマイアミに戻された。1909年、郡北部からパームビーチ郡が分離設立され、1915年にはパームビーチ郡とデイド郡がほぼ同じ広さの領域を分けて、間にブロワード郡を設立した。1915年以降重大な郡域の修正はない[9][10][11]

1992年8月24日月曜日の早朝、マイアミを襲ったハリケーン・アンドリューは、アメリカ史の中でも2番目に破壊的な自然災害となった。真東から郡中部を襲い、マイアミの南部とホームステッド、ケンドールとカトラーリッジ(現在はカトラーベイの町)を襲った。デイド郡だけでも被害総額は250億米ドル以上となり、被害の大きな地域では復興のために数年間を要した。2005年にハリケーン・カトリーナメキシコ湾岸を襲うまで、アメリカ史最大の自然災害になっていた。
郡名の変更

1997年11月13日、郡民はデイド郡からマイアミ・デイド郡への変更を承認した。これはマイアミという名前が国際的に認知されているためだった[12]
地理

マイアミ・デイド郡の標高は僅か6フィート (1.8 m) である。地質的には比較的新しく、数百万年前に造られた炭酸塩の台地であるフロリダプラットホームの東端にある。東部はウーライトの石灰岩であり、西部は大半が苔虫類でできている[13]更新世の大半で造られ植物や動物と共に人類が入った最新の地域である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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