ポール=ルイ・クーシュー
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ポール=ルイ・クーシュー
Paul-Louis Couchoud
誕生 (1879-07-06)
1879年7月6日
フランスイゼール県ヴィエンヌ
死没 (1959-04-08) 1959年4月8日(79歳没)
フランスイゼール県ヴィエンヌ
職業医師哲学者詩人
国籍 フランス
ウィキポータル 文学
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ポール=ルイ・クーシュー (Paul-Louis Couchoud; フランス語: [ku?u]; 1879年7月6日 - 1959年4月8日)はフランスの哲学者であり、パリの権威ある高等師範学校を卒業した医師であり、文学者、そして詩人である。彼は日本の俳句フランス語に翻訳した人物、評論誌の編集者、翻訳家、そしてイエス・キリストの非歴史性についてのドイツ理論を広めた人物としてよく知られている。ポール=ルイ・クーシュとも呼ばれる[1]
青年期

1879年7月6日、イゼール県ヴィエンヌ市で鉱山技師の父のもとに生まれた[2]。パリで学び1897年ソルボンヌで哲学の文学学士号を取得した[2]

1898年、クーシューは高等師範学校に入学したが[2]、それは毎年フランス国中から選抜された文系・理系のエリート学生に対する大学レベルの教育機関である。彼は1901年に哲学のアグレガシオン(教員資格)を取得して卒業した[2]。フランスの学位はアメリカとは異なるが、年に一度の全国コンクールで数十人のトップレベルの学生達に与えられる。
日本訪問と日本の俳句への興味

クーシューは銀行家アルベール・カーンの奨学金を獲得した[注釈 1]。この奨学金でクーシューは1903年9月から1904年5月まで日本を訪れ、この国に情熱を傾けるようになった[2]1905年にフランスの運河を船で旅行した際、二人の友人、彫刻家のアルベール・ポンサンと画家アンドレ・フォールと共にクーシューはフランス語で俳句を詠んだ[2]。彼らはその俳句72句を『水の流れるままに』という自由三行詩集にまとめ、匿名で限定30部の私家版で刊行したところ好評を得た[2][3]。この句集は俳句のフランス語への最も成功した翻訳のひとつとされている。クーシューはさらに日本の俳人、特に与謝蕪村を研究し、「ハイカイ(日本の詩的エピグラム) Les Epigrammes lyriques du Japon」として1906年に月刊文芸誌『文学』に連載した[4]

クーシューは後に日本と中国を2度訪れ、その見聞は1916年に『アジアの賢人と詩人』という著作となった[2]。この本の第2章には先の「ハイカイ(日本の詩的エピグラム)」も転載されている[5]。1955年にマルグリット・ユルスナールは次のように書いている。「私はP.L.クーシューに会ったことはありませんが、彼の『アジアの賢人と詩人』という本のハードカバーを持っており、その本によって私は初めてアジアの詩と思想に出会うことができました。それは私が15歳の時で、今でも彼が翻訳した俳句をいくつか諳んじています。この素晴らしい本は私にとって半分開かれたドアーなのです。それは決して閉じることはありません。あなたと共にクーシューを訪ね、彼が私に感じさせ共鳴させたすべてについて、病める詩人にお礼を言いたいと、何度望んだことでしょう[6]

1920年には『新フランス評論 (N.R.F) 』誌に「ハイカイ」アンソロジーが掲載され、クーシューを含む12人のハイカイが紹介された[2]。ドイツの作家ライナー・マリア・リルケはこのアンソロジーとクーシューの『アジアの賢人と詩人』により、俳句に親しんだ[7]。クーシューは1936年5月には渡仏した高浜虚子とパリで会い、交流した[2][8][注釈 2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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