ポール・ワイアット・キャラウェイ
Paul Wyatt Caraway
生誕1905年12月23日
アーカンソー州ジョーンズボロ
死没 (1985-12-13) 1985年12月13日(79歳没)
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1929年 - 1964年
最終階級陸軍中将
除隊後弁護士、大学教員
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ポール・ワイアット・キャラウェイ(Paul Wyatt Caraway、1905年12月23日 - 1985年12月13日)は、アメリカ陸軍の軍人で、最終階級は陸軍中将であった。1961年2月16日から1964年7月31日まで第3代琉球列島高等弁務官を務めた。退任までの3年半、沖縄の軍政府支配の絶対権力者のシンボルとなり、「キャラウェイ旋風」の異名を残した。 1905年12月23日、アーカンソー州ジョーンズボロ[1] で父・サディアス(英語
人物
彼は小柄であったため、Small Paul Carawayと呼ばれ[5]、趣味は銃の収集のみで、有名な仕事中毒者であった[6]。アメリカ陸軍軍史研究所にはキャラウェイの陸軍士官学校在籍時代から退役時までに関する文書と写真を保管し[7]、またフーヴァー戦争・革命・平和研究所には1953年から1964年までの彼の記録を含む論文が所蔵されている[8]。 1929年に陸軍士官学校を卒業し、同年少尉に任命された[1][9]。1935年から1937年、中国・天津で第15歩兵連隊に服した[1]。また、1938年から1942年、陸軍士官学校で法律を教えた[9]。 1942年から1944年、アメリカ合衆国陸軍省の参謀幕僚を務め、第二次世界大戦中のCBI(中国・ビルマ・インド)戦線で陸軍参謀長アルバート・C・ウェデマイヤー大将の補佐として仕えた[10]。1945年に陸軍准将へ昇進し[11]、陸軍から殊勲章が授与された[12]。戦時中多数の役職を持っていたにもかかわらず、彼は一度も戦闘を経験したことがなかった[6]。 1945年から1946年は中国・重慶で軍事連絡部の将官として指揮し[1]、1947年には国防大学の教官[10]、1950年にはイタリア・トリエステの部署に配置された[13]。また、当時のアメリカ合衆国副大統領リチャード・ニクソンと同行し、アジアの国々へ外交任務を行った[14]。 1955年8月から1956年4月まで、韓国で第7歩兵師団の指揮を執り[15]、1957年から1958年までは在日米軍本部で参謀幕僚を務めた[1]。1964年には2度目の殊勲章と同じ勲章を重ねて受領したことを意味する樫葉章が与えられ、陸軍中将に昇進した[12]。朝鮮戦争後は陸軍研究開発局局長に任命された[16]。1964年には陸軍中将として退役した[1]。1961年2月14日、沖縄での最初の記者会見。 キャラウェイは1961年2月16日から1964年7月31日まで第3代琉球列島高等弁務官を務めた。しかし、アメリカ上院議会が彼の中将昇進を未だ承認していないにもかかわらず、沖縄に到着した彼は中将の証である3つ星勲章を身に着けていた。これは沖縄住民に強い印象を与えた[6]。 キャラウェイは、沖縄は中国に対する防衛のため、アメリカ軍支配における重要な地域であると考え[17]、さらにアメリカ軍による占領は、沖縄にとって前向きな力になると信じた。沖縄経済は彼の支配下で成長し、沖縄が日本復帰すれば権威主義者による支配や沖縄住民に対する差別が行われると考えた。キャラウェイは沖縄の政治家は有能とみなしたが、彼らとは対等な立場にないと考えた[6]。
軍歴
高等弁務官時代
キャラウェイ旋風