ポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年10月)

ポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュ
人物情報
生誕 (1845-01-22) 1845年1月22日
フランスペスナ
死没1918年4月5日(1918-04-05)(73歳)
出身校高等師範学校
学問
研究分野地理学
研究機関ソルボンヌ大学
テンプレートを表示

ポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュ(Paul Vidal de la Blache、1845年1月22日 - 1918年4月5日)は、フランス地理学者。フランスにおける近代地理学の父であり、フランス地理学派 (Ecole francaise de geographie) の創設者である。地理学的現象における歴史性を重視する立場を唱えて、人間環境との関係を重視し、地誌研究を重視するフランス地理学の伝統の礎を築いた。環境可能論の立場を表明したことでも知られる。地理学に触れる上で欠かすことのできない人物である。なお、ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュで一つの姓である。
生涯

南フランスのペスナに生まれる。パリの高等師範学校歴史学を学ぶ。これは、地理学における歴史的な見方の礎となる。1866年に教授資格を取得。1867年にアテネ・フランス学院のメンバーになり、アテネへ赴く。機会の折、トルコシリアエジプトなどに旅をする。この頃から地理学に興味を抱き、その思いはアレクサンダー・フォン・フンボルトカール・リッターの著作との出会いで決定的となった。1872年にフランスへ帰り、ナンシー文科大学にて地理学を講ずる。当時の地理学の先進国であった隣国ドイツの地理学者、ペシェルやリヒトホーフェンラッツェルらとも交流を持ち、影響を受けた。1877年には高等師範学校の地理学教授、1889年にはソルボンヌ大学の地理学教授。彼の元から、マルトンヌやマンジョンなどフランスで第一線で活躍する地理学者が育った。

彼は、地理学の中で、ラッツェルの環境決定論を修正し、人間は環境によって法則的に決定されるのではなく、影響されつつも、それに対して能動的に活動することができると考えた。地理学において環境との人間との関係を見ることが重要と考え、各地域での環境との人間との関係も、歴史的な流れの中にあることを指摘、そうした流れの中で、各地の地域における地的統一 (unite terrestre) と名づけた力と、そこにみられる生活様式 (genre de vie) とを追求して地域研究を行う立場を表明した。こうした立場で世界各国の地誌の記述を試みる地誌書『Geographie universelle』(世界地理)の完成に取り組んだ。ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュは、責任編集者として、フランスの地理学者たちと取り組んだが、ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュの生前にはかなわず、1947年に完成した。このシリーズ本は学際的な取り組みで地誌研究はおろか、経済学社会学方面からも評価されている貴重な書である。

また、地理学雑誌 『Annales de Geographie』を1891年に創刊。これは、現在でもフランスにおいて重要な学術雑誌として認知されている。

ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュは、人文地理学の概念の確立にも務め、彼の人文地理学に対する考えを示した『人文地理学原理』 (Principes de geographie humaine) はよく知られている。これは、地理学のみならず、歴史学や経済学、社会学方面の人物からも読まれた名著である。

1918年にタマリ・スュール・メールにて急逝。73歳だった。
家族・親族

同じフランスの地理学者エマニュエル・ドゥ・マルトンヌは、娘婿にあたる。
著作

『人文地理学原理』 (Principes de geographie humaine, 1922)没後にマルトンヌにより編纂された。日本語版は
飯塚浩二訳、岩波文庫(上下、改版1970)

典拠管理データベース
全般

FAST

ISNI

VIAF

WorldCat

国立図書館

ノルウェー

スペイン

フランス

BnF data


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:10 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef