ポール・ロブスン
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ポール・ロブスン
Paul Robeson
1942年6月のロブスン。ゴードン・パークス撮影
本名Paul LeRoy Bustill Robeson
生年月日 (1898-04-09) 1898年4月9日
没年月日 (1976-01-23) 1976年1月23日(77歳没)
出生地 アメリカ合衆国
ニュージャージー州プリンストン
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ポール・リロイ・バスティル・ロブスン(Paul LeRoy Bustill Robeson, 1898年4月9日 - 1976年1月23日)は、多言語で活躍したアメリカ合衆国俳優運動選手、「義勇軍進行曲」の英訳をしたことで有名なバスバリトンオペラ歌手、作家公民権活動家、共産党支持者、ソ連スパイ、スピンガーン・メダルとスターリン平和賞の受賞者。
若年期と家族

ロブスンはニュージャージー州プリンストンで生まれた。家系がイボ族であり、彼の父親のウィリアム・ドリュー・ロブスン(英語版)は、奴隷として生まれたノースカロライナ州のプランテーションから逃れ、後にペンシルベニア州のリンカーン大学(英語版)を卒業して教会の牧師となった[1]。母親のマリア・ルイザ・バスティル(英語版)は、奴隷制廃止論者のクエーカー教徒の家の出身であった[1]

ポールの4人の兄弟姉妹は、ワシントンD.C.で医師を営んだウィリアム・ドリュー・ロブスン、牧師のベンジャミン・ロブスン、フィラデルフィアに住んだリーヴ・ロブスン(リードと呼ばれた)とマリアン・ロブスンがいた。

ポールはニュージャージー州サマーヴィル(英語版)のサマーヴィル高校で歌、演技、運動を学び、1915年、首席で卒業した。
教育
ラトガース大学

ロブスンは勉学で奨学金を得てラトガース大学へ入った。同校の3人目のアフリカ系アメリカ人の学生で、彼の在校時には唯一の黒人学生であった。ロブスンはラトガース大学でファイ・ベータ・カッパに入会できた3人のうちの一人で、またラトガース大学の優秀な学生で作るキャップ・アンド・スカル(英語版)に1919年に選ばれた4名の学生のうちの一人であった。彼はクラスメートの推薦を受けて卒業生総代も務めた[2]

運動選手としても、ロブスンはフットボール野球バスケットボール陸上競技など、全部で15の代表チームで活躍した。特に彼の才能はフットボールにおいて極まっていて、1917年1918年の2度、全米1位のチームに名前を連ねた。彼がラトガースのフットボールチームに入部を志願したとき、意地の悪い他の選手は彼を殴り、彼の指の爪を剥がしたりさえもした。彼は真価を発揮するためにそのいじめに耐えた。しかしながら、後年、合衆国政府が彼の国外旅行を禁止した時、彼の名前は過去にさかのぼって1917年と1918年の全米フットボールチームの名簿から削除された[3]
コロンビア法律学校

ラトガース大学卒業後、ロブスンはハーレムに移ってコロンビア大学法科大学院に入った。1920年から1923年まで、ロブスンは運動選手と演奏者として、法律学校の学費を稼いだ。彼は後のNFLとなるアクロン・プロスとミルウォーキー・バジャーズでプロフットボール選手として活躍し、ペンシルベニア州のリンカーン大学でフットボールのアシスタントコーチも務めるかたわら、ニューヨークとロンドンで1922年の演劇『タブー』に出演した ⇒[1]。コロンビアでは、ロブスンはアフリカ系アメリカ人による最古の大学間のギリシャ文字の友愛会、アルファ・ファイ・アルファ(英語版)に加わった。

1923年に卒業し(同じ法律学校のクラスには、後の合衆国最高裁判事、ウィリアム・O・ダグラス(英語版)がいた)、ニューヨークシティのストッツバリーとマイナーにある法律事務所に雇われたが、白人秘書が彼の肌の色を理由に口述筆記を取る事を拒否したため、ロブスンは事務所を辞めた。後にロブスンは、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で学んだ。
家庭

1921年8月、彼はエスランダ(エシー)・カルドソ・グード(1896年 - 1965年)と結婚した。彼女はニューヨークシティのコロンビア長老派教会医療センター(英語版)の病理検査室で室長を務めていて、アメリカ合衆国最高裁判事のベンジャミン・カードーゾの親戚であった。ロブスン夫妻は1927年に一子ポール・ロブスン2世を儲けた。
経歴
演劇

ロブスンは、優れたバスの声によって、俳優や声楽家として名声を受けた。ヘ音記号より下のCまで出せる力強い美声によってアメリカ楽壇で名を成した、数少ない真のバス歌手の一人であった。舞台活動に加えて、古い黒人霊歌の解釈が称賛された。ロブスンは、黒人霊歌を演奏会場にもちこんだ最初の歌手であった。

ロブスンが最初に演じたのは、1922年にハーレムYMCAで上演された『Simon the Cyrenian』でのサイモン役と、ハーレムのサム・ハリス劇場での『タブー』でのジム役であった。『タブー』は後に『ヴードゥー』に改名された。彼は1924年上演のユージン・オニール作『皇帝ジョーンズ(英語版)』の主役の演技で高く評価された(もともとこの役は、1920年にチャールズ・ギルピン(英語版)が演じてこちらも大きな成功を収めた)。また、オニール初期の『すべて神の子には翼がある(英語版)』の公演において、白人女性と結婚して自分の肌の色を口汚く罵られ、法律家として有望な前途を妻に台無しにされるという役柄を演じたことでも有名になった[4]

次にロブスンはデュボース・ヘイワード(英語版)の小説『ポーギー(英語版)』の演劇版でクラウン役を演じた。この小説は、後にジョージ・ガーシュウィンのオペラ『ポーギーとベス』(台本:アイラ・ガーシュウィン)の原作となった。

ロブスンは1928年、ロンドンのミュージカル『ショウボート』で彼のために書かれたジョー役を演じ、その後1932年のブロードウェイ・シアターでのリバイバル公演、1936年の映画版、1940年のロサンゼルスでの再演でも同役を演じた。

1930年、ロブスンはイングランドシェイクスピアの「オセロ」の主役を演じた。当時、彼をこの役に起用する合衆国の会社はひとつもなかった。1943年にニューヨークでオセロを再び演じ、1945年までアメリカ合衆国をツアーした。ブロードウェイでのオセロの上演は、2006年の現在、シェイクスピア演劇のロングラン記録となっている。ロブスンは、この公演によって1945年にスピンガーン・メダル(英語版)を受賞した。ユタ・ハーゲン(英語版)がデスデモーナを演じ、ホセ・フェラーがラゴを演じた。

1936年C・L・R・ジェームズによる演劇でトゥーサン・ルーヴェルチュールの役を俳優のロバート・アダムス(英語版)と共に演じた。ロブスンのアフリカ系アメリカ人フォークソングのレパートリーによって、とりわけ彼の『ゴー・ダウン・モーゼス(英語版)』の公演などの演劇は、アメリカ国内と海外で広く注目を集める事になった。ロブスンは、世界の民謡に興味を持ち、20の言語(うち12言語は流暢かほぼ流暢な程度)に精通するようになった。1920年代の後の彼のスタンダード曲のレパートリーは、多くの言語の歌(中国語ロシア語イディッシュ語ドイツ語など)を含んでいる。
映画

夫婦でイングランドに移住していた1925年と1942年の間に、ロブスンは11の映画作品に登場した(それらのうちの4作品以外はすべてイギリス製作の作品であった)。第二次世界大戦の開戦まで、長期の歌のツアーをしながら、彼はイギリスに残った。ロブスンは『ソング・オブ・フリーダム(英語版)』や『プラウド・ヴァレー(英語版)」など1930年代のイギリス映画において大きな興行面での呼び物となった。


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