ポール・ランド
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

ランド・ポール」とは別人です。
ポール・ランド

ポール・ランド(Paul Rand, 本名Peretz Rosenbaum, 1914年8月15日 - 1996年11月26日)は、アメリカ合衆国の著名なグラフィックデザイナー。様々な企業のロゴデザインで知られる。ニューヨークのプラット・インスティチュート (1929–1932)、パーソンズ美術大学(1932–1933)、アート・スチューデント・リーグ (1933–1934)で学んだ。グラフィック・デザインにおけるスイス・スタイルの創始者のひとりである。1956年から1969年にかけて、さらに1974年以降、イエール大学でデザインを教えている。1972年、ニューヨークのアート・ディレクターズ・クラブの殿堂(Hall of Fame)入りを果たした。

作品として多くのコーポレートアイデンティティやポスターがあり、IBMUPSABCテレビNeXTエンロン[1]のものがよく知られる。1996年に癌のため死去。ニューヨークのBeth El墓地に埋葬された。

作品の一部は英語版wikipediaおよび仏語版wikipediaで見ることができる。
幼少時代と教育

ペレス・ローゼンバウムは1914年、ニューヨークのブルックリンで生まれた[2]。幼い頃からデザインに関心を持ち、父の経営する食料品店や学校のイベントのために看板を描いている[3]

ランドの父親は芸術で身を立てることに懐疑的だったため、ポールをマンハッタンのハレン・ハイスクールに進学させたが、ポールは平行してプラット・インスティチュートの夜学クラスに通っていた。ポール・ランドは大雑把にいえば「デザイナーとしては独学で、Gebrauchsgraphikなどの欧州の雑誌に掲載されたカッサンドルモホリ=ナジの作品から学んでいた」[4]
初期の業績

彼の経歴はそれほど華々しい開始をしたわけではなく、初めの仕事は新聞や雑誌にストック・イメージを提供する会社のパート・タイムであった[3]。学校の課題と仕事の合間をつかってランドは相当な量のポートフォリオを作成している。これはドイツの広告のスタイル、ザッハプラカット (Sachplakat, object poster)やグスタフ・イエンセンの影響を受けたものであった。

はっきりとユダヤ系と分かる「ペレス・ローゼンバウム」という名前を隠し、簡単なものにするために名前を変えようと決意するのはこの時期である。ファーストネームは短くして「ポール」とし、叔父から「ランド」という姓を借りることにした。ランドの友人で恊働していたモリス・ヴィソグロード(Morris Wyszogrod)は、「彼は四文字ずつのPaul Randという名がすてきなシンボルになると思っていました。だから彼はポール・ランドになることにしたんです」[2]と語っている。ロイ・R・ベーレンスはランドの新たな名前の重要性を「ランドは新しいペルソナを手に入れた。これはその後の多くの業績のブランド名になったもので、つまり彼が最初につくりだしたコーポレートアイデンティティだったのである。そしてこれは最も長持ちしたものだった」[2]と指摘している。

実際にランドは急速に名を挙げるようになる。20代の初めにはすでに国際的な注目を集めるようになり、とりわけデザインの自由を交換条件として無償で請け負った雑誌Directionのカバーが評判となった[3]。ついにはモホリ=ナジの賞賛も受けている:

「アメリカの若い世代の中で、ポール・ランドは最も有能な人間のひとりのようだ。[. . .] 彼は自分の住む国から知識と創造性を吸収している画家であり、講師である、産業デザイナーであり、そして広告デザイナーである。詩人の言葉をかたりながらビジネスマンの言語を解する彼は、理想主義者であると同時に現実主義者である。必要と機能について熟考している。問題を分析する能力に長けているが、その空想はとどまるところを知らない。[3]

ランドが20代の輝かしい活躍で築いた評判は以後衰えることがなかった。むしろ、その後の作品や書いたものがその分野における彼の陰の立役者(eminence grise)としての地位を確立してゆくにつれ、その名声はますます堅固なものとなってゆく。[4]

ランドは1950年代から1960年代にかけて制作した企業ロゴの分野で一番知られているが、もともと評価されたのは初期のページ・レイアウト(タイプセッティング)の仕事である。1936年、ランドはApparel Artsという雑誌の記念号のページ・レイアウトを任される[3]。彼の才能は「ありふれた写真を劇的な構成に変え、誌面の説得力を大きく増」し、ランドはフルタイムの業務を与えられることになった。さらにはEsquire誌やCoronet誌からアート・ディレクションの注文を呼び込んだ。ランドは、初めは「まだ自分はそうしたレベルに達していない」として注文を断っていたが、一年後にはEsquire誌のファッションのページの責任者になることを決意する。このときわずか23歳であった。

Direction誌のカバーのデザインは、そのころまだ模索中であった「ポール・ランド風」デザインを展開していくための重要な段階となったようである[3]。1940 年12月号のカバー(英語版本記事の図Aを参照)は、有刺鉄線のイメージによって戦渦で破壊された贈り物と十字架を現したもので、この雑誌の仕事での「芸術的自由」を端的に示すものになっている。『デザインについて』(Thoughts on Design)で、ランドはこれはついて「重要なのは、十字架が、宗教的な含意から解放された純粋な造形として、攻撃的な垂直性(男性性)と、受動的な水平性(女性性)の完璧な融合として表現されることである」と述べている[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef