ポール・ベルモンド
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ポール・ベルモンド
ポール・ベルモンド(2013年)
基本情報
フルネームPaul Alexandre Belmondo
国籍 フランス
出身地同・ブローニュ=ビヤンクール
生年月日 (1963-04-23) 1963年4月23日(61歳)
F1での経歴
活動時期1992,1994
所属チーム'92 マーチ
'94 パシフィック
出走回数27 (7スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1992年南アフリカGP
最終戦1994年オーストラリアGP
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ポール・アレクサンドル・ベルモンド(Paul Alexandre Belmondo, 1963年4月23日 - )は、フランスの元レーシングドライバー
経歴
生い立ち

フランスを代表する人気俳優ジャン=ポール・ベルモンドの息子としてパリ郊外のブローニュ=ビヤンクールで生まれる。1981年にモナコステファニー王女恋人であるとして報道された。
レースデビュー

1979年にレーシングカートを経て、1982年にフォーミュラ・ルノーに参戦し、1984年にはフランスF3選手権にステップアップしランキング4位に入る。1987年から国際F3000選手権にステップアップ。F3000には5年間フル参戦しポイント獲得は2回、決勝最高位は5位1回であった。
F1

1990年夏に、翌年から2カー体制へと規模拡大してのF1参戦を希望していたイタリアの小チーム・オゼッラからオファーがあり、1991年のオプション契約を結んだ。しかしF3000の実績で入賞回数が少なかったため、ベルモンドへのスーパーライセンス発給が認められるか不確実だとチームが判断しレギュラーシート契約は見送られた[1]
1992年

前年までレイトンハウスF1チームとして参戦していたマーチのセカンドドライバーとしてF1シートを得た。しかし年間全戦の契約ではなく、マーチに持ち込むスポンサー資金による8月までの契約だった。

開幕戦から同じマシンに乗るカール・ヴェンドリンガーの予選ラップタイムより2.4秒離され、第10戦まで予選成績全敗、6度の予選落ちを喫するなど苦戦。第11戦ハンガリーGPで初めて予選でヴェンドリンガーに勝ち、決勝レースも9位で完走したが、同年の国際F3000選手権で4連勝を記録しタイトル争い中のエマニュエル・ナスペッティが新スポンサー持参でマーチと交渉し契約、ベルモンドのマーチでの参戦は終了となった。ハンガリーGPでの9位完走は結果としてベルモンドのF1キャリアハイとなった。
1993年

シーズン開幕前にはドライバー発表が遅れていたラルースのテストドライブを担当し、92年型のマシンに93年仕様ランボルギーニV12エンジンを搭載したマシンで潤滑システム評価などを担った[2]。しかし正ドライバーには選ばれず、1993年はレースシートを得られなかった。
1994年1994年イギリスGPでのベルモンド

1994年からF1にステップアップしたパシフィックのセカンドドライバーとしてF1に戻った。

しかし、同チームのシャシーは1991年にシャーシコンストラクターのレイナードがF1参戦を計画した際にロリー・バーンパット・シモンズが設計した図面をベースとしており、新たにパシフィック・PR01と名付けられてはいたがすでに3年落ちとなる古い設計コンセプトだった。エンジンも前年ザウバーが使用していたイルモアの型落ちエンジンを搭載しており、チームには元々の設計図面や開発のための風洞研究設備も無く戦闘力に乏しかった。チームメイトのベルトラン・ガショーと2台そろって予選を通過できたのは、カール・ヴェンドリンガーのクラッシュの影響でザウバーの2台が欠場したモナコGPと、金曜フリー走行でシムテックアンドレア・モンテルミーニがクラッシュし予選以降を欠場したスペインGPで、この年ベルモンドが決勝レースに進出したのはこの2レースだけで完走は無かった。ファーストドライバーのガショーも決勝進出は5レースだけで完走は無く、パシフィックの2台は以後最終戦まで予選不通過を続けた。この年F1に参戦した全13チームの中での13番目のチームとして1年を過ごしたパシフィックは翌年に向けて参戦が困難となったチーム・ロータスとの合併を模索していたが、ベルモンドに契約延長オファーは無くF1シートを失った。
その後

フォーミュラカーからは撤退し、1999年からはFIA GT選手権に「ポール・ベルモンド・レーシング」のオーナー兼ドライバーとしてクライスラー・バイパー GTS-Rで参戦を開始、ル・マン24時間レースにもティアゴ・モンテイロとともに参戦する。ル・マンにはドライバーとしては2005年まで参戦、チームとしては2006年まで参戦した。このほかパリ・ダカールラリーや、2004年にはワールドシリーズ・バイ・ニッサン[3]にフランスF3チャンピオンの福田良を起用し参戦した。

2007年のFIA GT2カップへのスポット参戦を最後にドライバーとしての参戦を引退したが、7年のブランクを経て2014年のル・マン・クラシックにフォード・GT40で参加、以後ゲストドライバーとして不定期に2017 GT4 European Series Southern CupなどのGTレースに参加している[4]

レーサーとして一線を退いて以後は、名優である父の後を追い演劇界に進み、俳優としてテレビドラマ映画に出演するほか、劇場支配人などもしているという[5]
レース戦績
フランス・フォーミュラ3選手権

年エントラントシャーシエンジン123456789101112順位ポイント
1984年
NEWMAN オレカマルティニ Mk42アルファロメオALB
3NOG
RetDIJ
2PAU
3ROU
7CET
4MAG
6LED
8ALB2
64位59
1985年デビッド・プライス・レーシングラルト RT3フォルクスワーゲンNOG


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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