ポール・ブールジェ
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ポール・ブールジェ
Paul Bourget

生誕 (1852-09-02) 1852年9月2日
フランスアミアン
死没 (1935-12-25) 1935年12月25日(83歳没)
フランスパリ
墓地モンパルナス墓地
国籍 フランス
出身校リセ・ルイ=ル=グラン
高等研究実習院
職業批評家、作家
著名な実績『近代心理論集』
『弟子』
署名

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ポール・ブールジェ『Etudes et portraits』 1889年

ポール・ブールジェ (Paul Bourget、1852年9月2日 - 1935年12月25日) は、フランス批評家作家
前半生

ポール・ブールジェはフランス北部のピカルディ地域圏ソンム県アミアン郡アミアンで誕生する[1]。父の仕事の関係で生後まもなくクレルモン=フェランに移って主に同地で育った。父ジュスタンは数学者であり、クレルモン=フェランにある学校で教員として数学を教えていた[1]。5歳の時に母のアンヌがこの世を去った[2]。ブールジェはパリにあるコレージュ・サント=バルブで学んだあと、モリエールヴィクトル・ユゴーが通った名門校リセ・ルイ=ル=グランに入学する。同級生のドニー・コシャン、フェルディナン・ブリュンティエールやアンリ・ベクレルらと知己を結ぶ。在学中に哲学を学び、カトリックの信仰に疑問を抱いて1867年に棄教して無神論者になった[2]。卒業後、高等研究実習院に通った。1871年にパリ・コミューンを目撃する。

ブールジェはハインリヒ・ハイネジョージ・ゴードン・バイロンオノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユーゴーに鋭く感化されて、詩人を志し、二十歳頃から詩作を始めて1872年に処女詩集『Au bord de la mer』を発表した。この頃にブールジェはテオドール・ド・バンヴィルステファヌ・マラルメポール・ヴェルレーヌといったあまねく高踏派の文化人たちと会食して親睦を交わした。特にアンドレ・ジルやフランソワ・コペーと親交が深かった。ブールジェは高踏派詩人として『La Vie inquiete』、『Petits Poemes』、『Le Parnasse contemporain』、『Edel』等の複数の詩集を発表したが、けれど当時の世に認められなかった。その後ブールジェは詩人を転じて批評家になったが、それはやがて結実して世に頭角を現すことになる。ブールジェはイポリット・テーヌに影響を強く受けていたことから実証的思考を培われ、人間を科学的に心理分析した。月刊誌『Revue des Deux Mondes』や、『Renaissance litteraire et artistique』誌などの記者を勤めた。それから実証主義の筆頭者として総合誌『La Revue independante』など複数の雑誌に寄稿し、さらに『Globe』誌で演劇評論家として活躍、『Nouvelle revue』誌の専属コラムニストとなる。この頃からブールジェは病理的な精神疾患の解明を追い求める。主にシャルル・ボードレールエルネスト・ルナンスタンダールギュスターヴ・フローベールなどを研究した[2]。1883年ころから、さまざまな雑誌に心理学的な視点を用いて批評、分析した作家に関する記事を数多く寄稿する。やがて近代文学を批評した大作『Essais de psychologie contemporaine』を発表して大いに反響を呼んだ。当作にてスタンダールを再評価した。

ブールジェは1884年に中編小説『L'Irreparable』を発表。次いで1885年に実験心理を用いた長編『Cruelle enigme』、1886年に不倫を題材にした『Un crime d'amour』、1887年にシェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにしたと考えられる『Andre Cornelis』などの小説を発表した[3]。作風は往々にして内的独白を伴うものであり、とりわけ貴族や上流階級の病理的心理分析に定評があった。1887年に発表された心理小説『Mensonges』はオクターヴ・ミルボーの影響が濃い。ブールジェは画家ポール・シャバをいたく気に入って著作の挿絵を依頼した。ブールジェの詩は再評価されて作曲家クロード・ドビュッシーによって曲が付けられた。特に『Les Cloches』、『Beau soir』といった楽曲が名高い。
合い間の時

ブールジェは1890年にミニー・ダヴィッドと教会で挙式をあげて婚約[4]。妻ミニーはイタリア語が解せたことからブールジェの親友であったイタリアの作家マティルデ・セラオの著作『Paese di Cuccagna』を仏訳した。

時期を前後してブールジェはイングランド、アイルランド、スコットランド、ドイツ、スイス、ギリシャ、スペインなどヨーロッパ諸国を漫遊した。それからモロッコ、パレスチナも訪れた。イギリスではロンドンやオックスフォードに滞在してウォルター・ペイターやヴァーノン・リーと交流した。


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