ポール・ブルーム
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ポール・チャールズ・ブルーム(Paul Charles Blum、1898年3月31日 - 1981年8月16日)は、アメリカ合衆国中央情報局 (CIA)初代東京支局長。
経歴
生い立ち

横浜市山手居留地で生まれる[1]。父はアルザス出身のユダヤ系フランス人でレオン・ブルムの遠縁、母はユダヤ系アメリカ人で、横浜で知り合って結婚し、貿易商を営んだ[1]。横浜で少年時代を送り、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジを卒業後、1912年にフランスに帰国[1]ジュネーブのハイスクールを経て、アメリカのイェール大学を卒業した[1]
両大戦中

第一次世界大戦にアメリカが参戦すると志願兵となり、野戦衛生隊員として従軍した[1]。終戦後はパリに居住し、ジャン・コクトーアーネスト・ヘミングウェイと交友があったとされる[1]。1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻により、ニューヨークに移る[2]。ここでコロンビア大学に入学し、日本語を学習する[注釈 1][2]。大学でブルームはドナルド・キーンと同窓になった[2]

ブルームは、キーンらと日本語学習のための合宿をしたこともあり、各国での体験をキーンに語ったという[2]。また、フランス文学も研究していたキーンに対して、フランスよりも日本のほうが研究者が少ないとして日本を取るよう助言した[2][4]
第二次世界大戦中

太平洋戦争開戦後、CIAの前身であるOSS(戦略情報部)に入局。タイ王国ポルトガルでの勤務を経て1944年10月にベルンの駐スイス公使館に設置されていたOSSスイス支局に赴任する[2]。1947年春まで勤務し、アレン・ダレス(のちのCIA長官)の部下として情報活動に従事した。第二次世界大戦末期にはベルンの日本公使館に海軍顧問補佐官として駐在していた藤村義朗海軍中佐(旧名・藤村義一)らを相手とした日本との終戦工作にも関与した。
第二次世界大戦後

戦後は1948年に駐日アメリカ合衆国大使館のアタッシェとして来日し、三井本館GHQ外交局に勤務[5]。裏の肩書はCIA初代東京支局長であったが、この事実は当時伏せられていた[6]

来日後は笠信太郎(第二次世界大戦中は朝日新聞ヨーロッパ特派員、のちに論説主幹)と連絡をとり、藤村義朗に商社「ジュピター・コーポレーション」を港区南青山に設立させ、藤村とともに同ビルの2階と3階に居住した[7]

1948年ころから帝国ホテルで日本の指導的知識人を集めた座談会「火曜会」を主催して情報収集を始め、1949年秋からは、藤村に見つけさせた渋谷区神山町の邸宅(旧鍋島藩邸)を入手して自宅とし、そこに場所を移して毎月第2火曜日、夜の夕食会として行われ、活動の内容は毎回ワシントンに報告された[8]。日本側の主催者は朝日新聞に復帰した笠信太郎である。集められた日本の指導者の中でも、笠信太郎、松本重治(国際文化会館理事長)、松方三郎共同通信社専務理事)、浦松佐美太郎(評論家)、東畑精一(農業経済学)、?山政道(政治学)、前田多門(文相)、佐島敬愛信越化学取締役)の常連の8人は、「8人のサムライ」と呼ばれていた[8]


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