ポール・パットン
[Wikipedia|▼Menu]

ポール・パットン
Paul E. Patton
インディアナポリス・モーター・スピードウェイでのパットン、2012年撮影

第59代 ケンタッキー州知事
任期
1995年12月12日 ? 2003年12月9日
副知事スティーブ・ヘンリー
前任者ブレレトン・ジョーンズ
後任者アーニー・フレッチャー
第51代 ケンタッキー州副知事
任期
1991年12月10日 ? 1995年12月12日
知事ブレレトン・ジョーンズ
前任者ブレレトン・ジョーンズ
後任者スティーブ・ヘンリー
個人情報
生誕ポール・エドワード・パットン
(1937-05-26) 1937年5月26日(80歳)
ケンタッキー州フォールズバーグ
政党民主党
配偶者キャロル・クーリー
ジュディ・ジェイン・コンウェイ
住居ケンタッキー州パイクビル
専業会社役員
宗教長老派教会

ポール・エドワード・パットン(: Paul Edward Patton、1937年5月26日 - )は、アメリカ合衆国実業家政治家である。1995年から2003年まで第59代ケンタッキー州知事を務めた。1992年にケンタッキー州憲法を修正したことで、約200年振りに連続して2期を務めた知事となった(ケンタッキー州が州になった初期の第2代州知事ジェイムズ・ゲアリドが連続2期(1796年 - 1804年)を務めていた)。2010年初期から、パイクビルにあるパイクビル大学の学長を務めており、2009年から2011年までケンタッキー州高等教育委員会の議長も務めた。

パットンは1959年にケンタッキー大学を卒業した後、20年間炭坑を経営して裕福な実業家になった。1970年代後半に炭坑の持ち株の大半を売却して政界に入り、ジョン・Y・ブラウン・ジュニア知事の閣僚を短期間務め、州民主党の議長となった。1981年、パイク郡の郡判事執行役に選出された。1987年に副知事に立候補して落選したが、次の1991年には当選し、ブレレトン・ジョーンズ知事の下で副知事と経済開発長官を同時に務めた。

その4年後、パットンは共和党のラリー・フォージーを破って州知事に当選した。知事として1期目の主要な業績は、州立コミュニティ・カレッジと工業学校をケンタッキー大学とは独立にし、それらをケンタッキーコミュニティ・工科カレッジ体系に組み込むなど、高等教育機関を点検したことがあった。1999年の再選を求めた選挙では大した抵抗もなく再選されたが、その直ぐ後で、民主党上院議員2人が共和党に鞍替えし、史上初めて共和党が同院の多数派となった。パットンの1期目を成功に導いた1990年代の好況は、2000年代初期の不況で萎んだ。敵対的な議会と切迫した経済予測に直面し、パットンは2期目には重要な法案の多くを法制化することができず、2002年には婚外情事や利益のためのセックスとされるスキャンダルが暴露され、その立場が悪化した。パットンは当初この情事を否定していたものの、のちにはそれを認めた。それでもその地位を使って女性の利益になることを提供したことについて否定を続けた。その任期の後半で、ケンタッキー州の選挙資金法に違背して告発された政治的助言者4人に恩赦を出したこと、さらに権限を使った人事を悪用したとされたことで攻撃された。これらスキャンダルが続いたことで、それ以上の政治的大志を追求できなくなった。


目次

1 初期の経歴

2 石炭産業での経歴

3 政歴

3.1 パイク郡判事執行役

3.2 副知事

3.3 1995年州知事選挙

3.4 州知事1期目(1995年?1999年)

3.4.1 教育改革

3.4.2 刑事司法改革


3.5 1999年州知事選挙

3.6 州知事2期目(1999年?2003年)

3.6.1 ティナ・コナーとのセックス・スキャンダル

3.6.2 別のスキャンダル、議会に対する影響力の喪失



4 その後の人生

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク


初期の経歴[ソースを編集]

ポール・エドワード・パットンは1937年5月26日に、ケンタッキー州フォールズバーグの、室内には水道も電気も電話も無い改装されたサイロで生まれた[1][2]。父はウォード・パットン、母はイレーヌであり、その3人の子供達の中で唯一の男の子だった[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:145 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef