ポール・パットン
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アメリカ合衆国政治家ポール・パットンPaul Patton
2012年
生年月日 (1937-05-26) 1937年5月26日(87歳)
出生地 アメリカ合衆国 ケンタッキー州フォールズバーグ
出身校ケンタッキー大学
現職会社役員
所属政党民主党
配偶者キャロル・クーリー
ジュディ・ジェイン・コンウェイ
宗教長老派教会
 ケンタッキー州
第59代知事
在任期間1995年12月12日 - 2003年12月9日
副知事スティーブ・ヘンリー
 ケンタッキー州
第51代副知事
在任期間1991年12月10日 - 1995年12月12日
州知事ブレレトン・ジョーンズ
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ポール・エドワード・パットン(英語:Paul Edward Patton、1937年5月26日 - )は、アメリカ合衆国政治家、実業家。第51代ケンタッキー州知事を務めた。1992年にケンタッキー州憲法を修正したことで、約200年振りに連続して2期を務めた州知事となった[1]2010年初期から、パイクビルにあるパイクビル大学の学長を務めており、2009年から2011年までケンタッキー州高等教育委員会の議長も務めた。

1959年にケンタッキー大学を卒業した後、20年間炭坑を経営して裕福な実業家になった。1970年代後半に炭坑の持ち株の大半を売却して政界に入り、ジョン・Y・ブラウン・ジュニア州知事の閣僚を短期間務め、州民主党の議長となった。1981年、パイク郡の郡判事執行役に選出された。1987年に副知事に立候補して落選したが、次の1991年には当選し、ブレレトン・ジョーンズ知事の下で副知事と経済開発長官を同時に務めた。

その4年後に共和党のラリー・フォージーを破って州知事に当選した。知事として1期目の主要な業績は、州立コミュニティ・カレッジと工業学校をケンタッキー大学とは独立にし、それらをケンタッキーコミュニティ・工科カレッジ体系に組み込むなど、高等教育機関を点検したことがあった。1999年の再選を求めた選挙では大した抵抗もなく再選されたが、その直ぐ後で、民主党上院議員2人が共和党に鞍替えし、史上初めて共和党が同院の多数派となった。パットンの1期目を成功に導いた1990年代の好況は、2000年代初期の不況で萎んだ。敵対的な議会と切迫した経済予測に直面し、パットンは2期目には重要な法案の多くを法制化することができず、2002年には婚外情事や利益のためのセックスとされるスキャンダルが暴露され、その立場が悪化した。パットンは当初この情事を否定していたものの、のちにはそれを認めた。それでもその地位を使って女性の利益になることを提供したことについて否定を続けた。その任期の後半で、ケンタッキー州の選挙資金法に違背して告発された政治的助言者4人に恩赦を出したこと、さらに権限を使った人事を悪用したとされたことで攻撃された。これらスキャンダルが続いたことで、それ以上の政治的大志を追求できなくなった。
初期の経歴

1937年5月26日にケンタッキー州フォールズバーグにて、室内には水道・電気・電話も無い改装されたサイロで誕生した[2][3]。父はウォード・パットン、母はイレーヌであり、その3人の子供達の中で唯一の男の子だった[4]。教師だった父は毎年のように異なる学校に赴任させられたので、家族は引っ越しが多かった[3]。父がパイク郡の鉄道会社に雇われたとき、子供達の学校が終わるまで妻がフォールズバーグに残るということで、夫婦の間に合意ができた[3]。パットンは生まれ故郷の教室が4室だけのフォールズバーグ小学校に通った[3]4Hクラブで活動し、大衆に向かって話す能力を身につけて行った[3]。1951年、ルイーザ市のルイーザ高校に入学した[3]。優等生であり、演劇部に入り、アメリカンフットボールと野球の選手となり、上級生のときは級長だった[3][4]。1955年、73人いた同級生の中で3位の成績で卒業した[4]

高校を出ると、ケンタッキー大学に入学し、1956年に学生自治会の役員になろうとしたが落選した[5]。2年生を終えた後、フロイド郡の炭坑運営者の娘キャロル・クーリーと結婚した[3]。この夫婦にはニッキとクリストファーという2人の子供が生まれた[6]。パットンは大学を終えるために義父から金を借り、1959年には機械工学分野で工学士の資格を得た[2][3]。後にルイビル大学から公共事業の名誉博士号を贈られた[7]
石炭産業での経歴

パットンは大学卒業後、義父のために日雇い労働者として働いた[6]。1961年、バージーに移転し、義兄弟と共に炭坑会社を立ち上げた[3]。1972年、シャパラル石炭会社を買収し、1973年の石油危機から生じた石炭ブームにのって非常に金持ちになった[6]。石炭産業の指導者となり、ケンタッキー州石炭協会の理事を務め、全米独立炭坑運営者協会の理事長となり、ケンタッキー州深堀安全委員会の委員になった[5]。連邦政府の1969年炭坑健康安全法を「問題の診断は正しいが、治療法の処方は間違っている」と非難した[8]。1976年までに全米独立炭坑運営者協会の会長になっていた[6]。イースタンマウンテン炭田の採炭方法を実質的に終わらせることになる、傾斜角度20度以上の斜面での露天掘りを禁止する連邦規制に抗議し、州の石炭環境税にケンタッキー州の炭坑に課された経済的不利を嘆いた[8]

パットンは労働組合に関わる炭坑運営者の大半と比べて穏健だと見なされていた。坑夫達の大半は組合に組織化されてはおらず、入っている者も対立的なアメリカ鉱業労働者連盟よりも南部労働者同盟に加入していた。シェルビーギャップのアメリカ鉱業労働者連盟の組合員は、パットンが1970年代後半にピックアップトラックで、ピケラインにいるストライキ中の坑夫を抜き取っていったことで逮捕されたと言っていた。地元の警察はこの事件について何も記録を残しておらず、パットンに対する逮捕令状や実際の逮捕の記録は無い[3]

1976年10月18日、パットンは自分達の結婚が取り返しのつかないほど壊れたとだけ言って、キャロル・クーリーとの離婚訴訟を起こした[3]。1977年2月25日に離婚が成立した[3]。その年の後半、パットンは自分のケンタッキー・ルクホーン鉱山の秘書でパイクビル出身のジュディ・ジェイン・コンウェイと再婚した[3]。1973年、コンウェイは最初の夫であるビル・ハーベイ・ジョンソンと離婚していた。前夫との間には2人の子供があった[3]


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