ポール・ニザン
Paul Nizan
ポール・ニザン
誕生 (1905-02-07) 1905年2月7日
フランス共和国、アンドル=エ=ロワール県トゥール
死没 (1940-05-23) 1940年5月23日(35歳没)
フランス共和国、パ=ド=カレー県オードリュイク
ポール・ニザン(Paul Nizan、1905年2月7日 - 1940年5月23日)はフランスの小説家、ジャーナリスト、政治活動家(共産党員)。リセから高等師範学校にかけてサルトルとともに学ぶ。1926年に学業・執筆活動を中断して政治家の子息の家庭教師として大英帝国の支配下にあったアデン(イエメン共和国)に滞在し、1931年に帝国主義・植民地主義、資本主義的搾取・疎外、ホモ・エコノミクス、ブルジョワジーを辛辣に批判する『アデン アラビア』を発表した。1927年に共産党に入党。ソビエト連邦が国際連盟に加盟し、反ファシズム統一戦線の結成を提案するなど対外政策を大きく転換させた時期に同国に滞在し、共産党の機関紙『リュマニテ』、『ス・ソワール(フランス語版)』の国際政治欄を担当するほか、国際革命作家同盟の機関誌『国際文学(フランス語版)』のフランス語版、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された革命作家芸術家協会の機関誌『コミューン(フランス語版)』を編纂した。
小説家として『アントワーヌ・ブロワイエ』、『トロイの木馬』、『陰謀』の3作を発表し、社会主義リアリズムの作品『陰謀』は1938年のアンテラリエ賞を受賞した。
第二次大戦下、英国軍の通訳・連絡将校としてダンケルクの戦いにおいて戦死。独ソ不可侵条約の締結とこれに対する共産党の態度を批判して離党したために戦後、トレーズ書記長や他の共産党員から裏切り者と非難され、サルトルらが抗議(ニザン事件)。作家としても20年にわたって忘れ去られていたが、1960年にサルトルが序文を付した『アントワーヌ・ブロワイエ』が再版されてから再評価が始まり、邦訳も1966年から1975年にかけて『ポール・ニザン著作集』全9巻・別巻2冊が刊行された。
歴史学者・人口統計学者のエマニュエル・トッドは孫(娘アンヌ=マリーと作家・ジャーナリストのオリヴィエ・ドット(フランス語版)の子)にあたる。 ポール・ニザンは1905年2月7日、フランスの中部アンドル=エ=ロワール県のトゥールでピエール・ニザン(Pierre Nizan、1864-1930)とクレマンティーヌ・メトゥール(Clementine Metour、1873-1951)の間にポール=イヴ・ニザン(Paul-Yves Nizan)として生まれた[1]。父方の祖父は分益農、父は鉄道技師で、1913年に昇進してドルドーニュ県ペリグーの工場に転勤になり、1917年にサボタージュのためパリに異動させられた[2][3]。1933年発表の『アントワーヌ・ブロワイエ』は、労働者階級から勤労によってプチブルジョワの地位を築いた父の人生をモデルにした小説である[4]。 トゥールの小学校、次いでペリグーの中学校を卒業した後、1917年にリセ・アンリ=カトルに入学し、同じ1905年生まれのジャン=ポール・サルトルと知り合った。通常は引き続き同校のグランゼコール準備級に進むところ、二人ともリセの校長との口論の結果、リセ・ルイ=ル=グランに転校して準備級に進んだ[2][5]。ニザンは同校の準備級で学ぶ傍ら、リセ・ルイ=ル=グランのアランの哲学の講義などを受講し[2]、1924年にサルトルとともに高等師範学校に入学した。高等師範学校の学生の部屋は同校の学生の俗語で「テュルヌ(thurne)」と呼ばれるが[6][7]、ニザンとサルトルは「同室(コ・テュルヌ、cothurne)」であった[8][9]。 リセ在籍中の1922年に初めて詩を書き、書き直して他の詩と併せて1927年にリーデル出版社
生涯
背景
学業・読書