ポール・トゥールーズの戦い
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ポール・トゥールーズの戦い
ジョージ王戦争

フランス軍によるポール・トゥールーズの手描き図
1734年ごろ)

1745年5月2日 - 1745年5月10日
場所ポール・トゥールーズ(イル・ロワイヤル、現在のノバスコシア州セント・ピーターズ)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度55分17秒 西経59度58分13秒 / 北緯45.92139度 西経59.97028度 / 45.92139; -59.97028座標: 北緯45度55分17秒 西経59度58分13秒 / 北緯45.92139度 西経59.97028度 / 45.92139; -59.97028
結果イギリスの勝利

衝突した勢力
イギリス領アメリカ
グレートブリテン王国フランス王国
ミクマク族
指揮官
ウィリアム・ペッパーレル
ジェレミア・ムールトンピエール・ベノワ
戦力
民兵水兵及び海兵隊員270兵士23
ミクマク族人数不詳
被害者数
戦死2数名
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ポール・トゥールーズ
(セント・ピーターズ) ノバスコシア州

ポール・トゥールーズの戦い(ポールトゥールーズのたたかい、英:Siege of Port Toulouse)は、1745年5月2日から5月10日にかけて、ニューイングランド植民地の軍が、フランス植民地のポール・トゥールーズ(現在のノバスコシア州セントピーターズ)を、オーストリア継承戦争ジョージ王戦争)中に攻略した戦いである[1]
ポール・トゥールーズ

ポール・トゥールーズはフランスにとって戦略上の要であった。それは、イギリスの所有地であるノバスコシア本土に最も近いフランス植民地であり、また、ミクマク族の拠点にも最も近いフランスの基地でもあったからである[2]。ミクマクの族長は毎年、同盟の更新のためにポール・トゥールーズを訪れた。イル・ロワイヤルのみならず、本島からもやって来た[3]

ポール・トゥールーズのあるイル・ロワイヤル南東部には、ミクマク族との同盟維持のため、そして、ポール・トゥールーズの防御強化のために、フランス王室からの支出がなされており、フランスとミクマク族とは相互関係にあった[4]。カンゾにおけるイギリスへの攻撃の基点としても、論理上ここしかないという位置にあり[5]ポール・トゥールーズはまた、フランス海兵隊の23人の兵の駐屯地でもあった[6]。イル・ロワイヤルの2つの主な町の一つで、ルイブール要塞の外側にあるこの砦には、さまざまな戦闘能力が備えられていた[7]。小規模ながら土塁と矢来もあった[6]1744年のカンゾへの攻撃により、村を離れた約200人のアカディア人もいた[8]
戦闘ウィリアム・ペッパーレル

1745年マサチューセッツ湾植民地の総督ウィリアム・シャーリーは、マサチューセッツ議会から、ポール・トゥールーズへの攻撃の支援をどうにか保証され、彼とニューハンプシャー植民地総督のベニング・ウェントワースは、他の植民地からも支援を得ようとした。コネチカット植民地は500人の兵、ニューハンプシャー植民地は450人の兵、ロードアイランド植民地は船、ニューヨーク植民地大砲を10門、そしてペンシルバニア植民地ニュージャージー植民地は資金を援助した。この遠征軍の指揮はキタリー(今のメイン州)のウィリアム・ペッパーレルで、准将ピーター・ウォーレンが海軍を指揮した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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