ポール・セザンヌ
[Wikipedia|▼Menu]

ポール・セザンヌ
Paul Cezanne

誕生日 (1839-01-19) 1839年1月19日
出生地 フランス王国 エクス=アン=プロヴァンス
死没年

1906年10月23日(1906-10-23)(67歳)(22日死亡説もあり)
死没地 フランス共和国 エクス=アン=プロヴァンス
国籍 フランス
運動・動向ポスト印象派
芸術分野画家
教育アカデミー・シュイス
代表作『カード遊びをする人々』、『大水浴図(英語版)』、『サント・ヴィクトワール山(英語版)』
影響を受けた
芸術家ウジェーヌ・ドラクロワエドゥアール・マネカミーユ・ピサロ
影響を与えた
芸術家ジョルジュ・ブラックアンリ・マティスパブロ・ピカソアーシル・ゴーキー
テンプレートを表示

ポール・セザンヌ(Paul Cezanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日(墓碑には10月22日と記されているが,近年は23日説が有力[注釈 1]))は、フランス画家。当初はクロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
概要

南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→#出生から学生時代)。パリで、後の印象派を形作るピサロモネルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→#画家としての出発(1860年代))。

ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→#印象主義の時代(1870年代))。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『制作 L'?uvre』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→#エクスでの隠遁生活(1880年代))。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→#個展の開催(1895年))。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→#最晩年(1900年 - 1906年))。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:175 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef