ポール・スミス
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その他の同名の人物については「ポール・スミス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典検索?: "ポール・スミス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年2月)

ポール・スミス
Sir Paul Smith
CH CBE RDI
ポール・スミス
誕生1946年7月5日
イギリスノッティンガム
職業ファッション・デザイナー
国籍 イギリス
主な受賞歴パリ市ヴェルメイユメダル、
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サー・ポール・スミス(Sir Paul Smith CH CBE RDI、1946年7月5日 - )は、イギリスノッティンガム出身のファッションデザイナー、また彼の持つファッションブランドである[1]
来歴

少年時代は自転車競技のレーサーを目指していたが、不慮の事故により挫折した。17歳の時にアートスクールの学生と親しくなり、芸術の世界に魅せられたことが現在の仕事のきっかけとなる。1966年後の夫人で公私共に大切なパートナーとなるロイヤルカレッジオブアートのテキスタイル教師で芸術家のポーリーンと出会う。

1970年ノッティンガムに最初の店を開く。当初はマーガレット・ハウエルケンゾーなどの商品を取り扱っていたが、徐々に自らの名を冠した商品も取り扱い始める(この店はロンドンのジョゼフ、ロサンゼルスのマックスフィールドと共に最も早くマーガレット・ハウエルを取り扱った店の一つで、デザイナーのマーガレット・ハウエルとは旧友である)。

1976年初めてのショーをパリで開催。以降、毎シーズンパリメンズウェアの新作コレクションを発表している。1980年ニューヨークデザイナーズコレクティブにパリのマルセル・ラサンスなどと共に招聘される。

1984年日本に進出。南青山骨董通りに路面店を構える。それ以前にも日本では大阪のナカガワクロージング、東京のインターナショナルギャラリービームスなどの専門店で取り扱われていたが、伊藤忠商事との契約に基づき正式に進出したのはこの年からである(同時期に骨董通りにメンズウェアの店を構えたコム・デ・ギャルソン川久保玲とは親しく、来日の際などにたびたび川久保や青山の店を訪ねるという。日本進出の際には、ラルフ・ローレンなどがあるフロアとコム・デ・ギャルソンなどがあるフロアのどちらに自社の服を置くかで悩んだそうである)。

1987年ニューヨーク5番街に路面店を構え、ヤッピーと呼ばれた若いエリート層の間で一種のステイタスシンボルとなる。この店の成功は、後に付近のエリアに進出したアルマーニの出店にも影響を与えた。

1991年英国産業デザイナー賞を受賞。1994年エリザベス2世女王より大英帝国勲章CBE)に叙勲される。

1997年トニー・ブレア首相就任の際に親任式のスーツを担当する(以後、ブレア首相退任までの10年間の長きに渡り公務のスーツを担当した)。同年、友人でもあるヴァージングループ会長リチャード・ブランソンらと共にブレア政権下の「クリエイティブ産業タスクフォース」のメンバーに選ばれ、クール・ブリタニアムーブメントの一翼を担う。

1998年ロンドンの高級住宅街ノッティングヒルに、念願であった邸宅を改装しビスポーク(注文服)のアトリエを併設した旗艦店「ウエストボーンハウス」を開店。2000年ファッションデザイナーとしてはハーディ・エイミスに続き2人目となるエリザベス女王からサーの敬称で呼ばれるナイトに叙勲される。

“ひねりのあるクラシック”をスローガンとする彼の服飾は伝統的な技術、仕立てと遊び心が共存する個性的なもので、ブランドのシンボルともなっている色鮮やかなストライプ柄や花柄、写真などのプリント技術を応用してメンズウェアに逸早く取り入れるなど、軽やかで色鮮やかな素材や仕立てを伝統的なものに取り入れ、融合させることにより、ジーンズとTシャツに代表されるカジュアルファッションの勢いに押されて低迷しつつあった、ともすれば古色蒼然とした堅苦しい印象を与えがちであった英国の伝統的なメンズウェアに、モダンなファッションアイテムとしての新たな価値を見出すと同時にスーツをはじめとする英国の伝統的なメンズウェアの良さを世界に再認識させた。

彼の感性は服飾の分野にとどまらず、早くから異業種のトム・ディクソンダイソンなどを取り扱ったり、1995年にファッション・ブランドとして逸早くウェブサイトを開設したり、1998年にはFIFAワールドカップフランス大会イングランド代表チームの公式スーツやローバーの小型車「ミニ」の内外装を手がけるなどして話題となった。2008年からはマンチェスター・ユナイテッドFCの公式スーツを担当している。2011年には映画「裏切りのサーカス」にクリエイティブコンサルタントとして参加。古くから映画やテレビドラマとは衣裳などを通して関わりがあり、メジャーなハリウッド作品からデレク・ジャーマンエドワードIIのようなカルト作品まで幅広い。2012年にはジョン・ロブライカとの協業が行われた。

後のイエーガー会長で英国ファッション協会会長のハロルド・ティルマンに見出され、ノッティンガムで自身の店を経営するかたわら、ロンドンの高級専門店ブラウンズのコーディネーター兼デザイナーに就任して3年間同社の買い付けとデザインを担当することから本格的なファッション業界でのキャリアをスタートさせ、膨大なアイデアを書き留めたメモを元に言葉でデザインを伝えて服の製作を行うなど、いわゆる一般的なファッションデザイナーとは異なったタイプの非常に社交的でユーモアセンスにあふれ、かつ、謹厳実直さや礼儀正しさも併せ持つ優れたビジネスマンであり、独創的な店舗の建築デザインへの功績から2007年に英国王立建築家協会(RIBA)の名誉会員に選出されるなど、多才なアイデアマンである。2011年に長年の英国ファッション業界への商業・クリエイティブ両面での貢献から英国ファッション大賞アウトスタンディング・アチーブメント賞を受賞。2012年に長年のパリ・コレクション参加などパリ市への貢献からパリ市ヴェルメイユメダルを受章。

また、ドリス・ヴァン・ノッテンアレキサンダー・マックイーンなどをデビューからバックアップするなど、後進の育成にも熱心で、彼らやキーン・エトロなどのよき理解者であり、その人柄から「ダディオブファッション」と呼ばれたりもしていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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