ポール・ゴーギャン
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ポール・ゴーギャン
Paul Gauguin

誕生日1848年6月7日
出生地 フランス共和国 パリ
死没年 (1903-05-08) 1903年5月8日(54歳没)
死没地 フランス領ポリネシア マルキーズ諸島
国籍 フランス
運動・動向ポスト印象派ポン=タヴァン派綜合主義クロワゾニスム象徴主義、プリミティヴィスム
芸術分野絵画彫刻陶芸エングレービング
影響を与えた
芸術家ナビ派の画家たち、エドヴァルド・ムンクパブロ・ピカソジョルジュ・ブラック
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ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(フランス語: Eugene Henri Paul Gauguin フランス語発音: [o??n a?i pol ?o???][1], 1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスポスト印象派画家

姓はフランス語の発音に近い「ゴーガン」とも表記され、近年の美術展覧会などではこちらを採用する例も多い。
生涯
出生から少年時代

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父クローヴィスは共和主義者のジャーナリストであった。母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンであった。1851年、ナポレオン3世クーデターで、共和主義者であったクローヴィスは職を失い、一家はパリを離れてペルーに向かった[2]。しかし、クローヴィスは航海中に急死した。残されたポールとその母と姉は、リマでポールの叔父を頼って4年間を過ごした。アリーヌはペルーにてインカ帝国の陶芸品を好んで収集していた。

ポールが7歳の時、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンで生活を始めた。ここはゴーギャン家が昔から住んでいた土地であり、スペイン語で育っていたポールはここでフランス語を身に付けた。
就職・結婚

ポールは地元の学校に通った後、ラ・シャペル=サン=メマン(英語版)の格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通った[3]。1861年、13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとするが、試験に失敗しオルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了した。そして、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡る。1867年7月7日、母が亡くなったが、ポールは数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった[4][5]。その後、1868年に兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで2年間勤めた[6]1871年、23歳の時パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり実業家として成功し、1879年には株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた[7][8]

1873年、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年 - 1920年)と結婚した。2人の間には、エミール(1874年 - 1955年)、アリーヌ(1877年 - 97年)、クローヴィス(1879年 - 1900年)、ジャン・ルネ(1881年 - 1961年)、ポール・ロロン(1883年 - 1961年)の5人の子供が生まれた。
絵の修業

株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた[9]。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。1876年、ゴーギャンの作品の一つがサロンに入選する。1877年、ゴーギャンは、川を渡って都心を離れたパリ15区ヴォージラールに引っ越し、この時、初めて家にアトリエを持った[10]。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シェフネッケルも、近くに住んでいた。ゴーギャンは、1879年の第4回印象派展に息子エミールの彫像を出品していたが、1881年と1882年の印象派展には、絵を出展した。作品は、不評であった[11][12]

1882年、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮した。ゴーギャンから絵を買い入れていた画商ポール・デュラン=リュエルも恐慌の影響を受け、絵の買付けを停止した。ゴーギャンの収入は急減し、彼は、その後の2年間、徐々に絵画を本業とすることを考えるようになった[9]。ピサロや、時にはポール・セザンヌと一緒に絵を描いて過ごすこともあった。1883年10月、彼は、ピサロに、画業で暮らしていきたいという決心を伝え、助けを求める手紙を送っている。翌1884年1月、ゴーギャンは、家族とともに、生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図ったが、うまく行かず、その年のうちに、妻メットはデンマークコペンハーゲンに戻ってしまった。ゴーギャンも、11月、作品を手にコペンハーゲンに向かった[13][14]

ゴーギャンは、コペンハーゲンで防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁にも阻まれ失敗した。そのため妻メットが外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支える状態であった。ゴーギャンはメットの求めを受けて、1885年、家族を残してパリに移った[15]

『ヴォージラールの市場の庭』1879年。スミス大学美術館。

『冬の風景』1879年。ブダペスト国立西洋美術館

『ゴーギャン夫人の肖像』1880 - 81年頃。ビュールレ・コレクション

『縫い物をする女』1880年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館

『ヴォージラールの庭』1881年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。

パリからポン=タヴァンへ(1885年-1886年)

ゴーギャンは、1885年6月、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。


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