ポール・エリュアール
[Wikipedia|▼Menu]

ポール・エリュアール
Paul Eluard
ポール・エリュアール(1945年頃)
ペンネームモーリス・エルヴァン、ディディエ・デロッシュ、ジャン・デュ・オー、ブラン(主に地下出版で)
誕生ウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデル
(1895-12-14) 1895年12月14日
フランスサン=ドニ (イル=ド=フランス地域圏セーヌ=サン=ドニ県)
死没 (1952-11-18) 1952年11月18日(56歳没)
フランスシャラントン=ル=ポン (イル=ド=フランス地域圏ヴァル=ド=マルヌ県)
墓地ペール・ラシェーズ墓地
職業詩人
文学活動ダダイスムシュルレアリスム
代表作「自由」、「ゲルニカの勝利」
『苦悩の首都』
『無原罪の御宿り』
『自由な手』
『詩と真実』
『苦しみの武器』
『自然の流れ(フランス語版)』『平和の顔』
配偶者ガラ・エリュアール・ダリ
ヌーシュ・エリュアール(フランス語版)
ドミニク・ルモール
署名
公式サイトhttps://eluard.org/
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

ポール・エリュアール(Paul Eluard、1895年12月14日 - 1952年11月18日)は、フランス詩人ブルトンアラゴンスーポーらとともにダダイスムシュルレアリスムを牽引。

ナチス・ドイツ占領下の1942年に「わたしは生まれてきた、きみを知るために、きみの名前を呼ぶために、自由と」と歌った詩「自由(フランス語版)」を発表。英国空軍機からフランス全土にばら撒かれ、絶望に陥っていたフランス国民の心に希望を蘇らせた。1943年にはレジスタンスの詩人22人のアンソロジー『詩人たちの名誉(フランス語版)』を編纂し、深夜叢書から刊行。ゲルニカ爆撃に抗議するピカソの「ゲルニカ」制作に合わせて詩「ゲルニカの勝利」を発表したのを機に、戦後は平和運動に尽力。1951年と女性の顔を重ねたピカソの石版画にエリュアールが詩を添えた詩画集『平和の顔』が刊行された。
背景

ポール・エリュアールは1895年12月14日、パリ北郊のサン=ドニイル=ド=フランス地域圏セーヌ=サン=ドニ県)のジュール・ゲード大通り(フランス語版)46番地で会計士のクレマン=ウジェーヌ・グランデルと裁縫師のジャンヌ=マリー・クーザンの子ウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデルとして生まれた[1]。「エリュアール」という姓は、彼が21歳のときに母方の祖母フェリシーの相続人となったためである[2]。父クレマン=ウジェーヌは社会主義者で、後に不動産会社を設立した。エリュアールはサン=ドニ、次いでオルネー=スー=ボワ(同セーヌ=サン=ドニ県)の小学校に通った。一家は1908年パリ10区のルイ・ブラン通り(フランス語版)に越した。
ガラとの出会い

エリュアールはコルベール高等小学校に入学したが、結核を患い、1912年7月に学業を断念してスイスで療養。喀血を起こしたために滞在を延長し、1914年2月までダヴォスのクラヴァデル療養所で過ごした。ここで後に結婚するロシア生まれのエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワに出会った。教養豊かで独立心が強く、奔放なエレナにエリュアールは惹かれ、彼女をガラ(ガラ・エリュアール)と呼んだ[3]。療養中にネルヴァルボードレールヴェルレーヌランボーロートレアモンアポリネールホイットマンなどを読み、詩作を始め、自費出版した[4]1911年頃のエリュアール

1914年8月、19歳のときに第一次世界大戦が勃発。12月に動員され、補助部隊に配属された。まもなく、第22衛生小隊、次いで1916年8月から北部ソンム県アルジクール(フランス語版)の野戦病院に転属された。ここで負傷者の苦しみと戦争の恐ろしさを目の当たりにしたエリュアールは、厭戦感から平和主義・自由至上主義に傾倒し、ミゲル・アルメレイダ(フランス語版)(夭折の映画監督ジャン・ヴィゴの父)が編集長を務める無政府主義風刺新聞『ボネ・ルージュ(フランス語版)』や『カナール・アンシェネ』(1915年創刊、フランス最古の新聞)を読んだ。1916年12月に歩兵隊への転属を希望。第95歩兵部隊に配属されたが、病気のために入院を余儀なくされた。退院後、再び補助部隊に配属され、終戦を迎えた。この間、1916年9月にガラが渡仏し、1917年2月21日に正式に結婚、1918年5月10日に娘セシルが生まれた[5][6][7]

エリュアールはすでに『第一詩集』と(初めて「ポール・エリュアール」の筆名で[8])『義務』を自費出版していたが、1917年に友人のアリスティード=ジュール・ゴノンが経営する出版社からアンドレ・デリニエール(フランス語版)の木版画入りの詩集『義務と不安』が刊行された[9]。翌18年には反戦詩の小冊子『平和のための詩編』を印刷して多数の作家に郵送した[4]
ダダイスム
プロヴェルブ誌創刊

終戦直後、トリスタン・ツァラ、および1919年3月にダダイスムの文芸誌『リテラチュール (文学)』を創刊したばかりのルイ・アラゴンアンドレ・ブルトンフィリップ・スーポーに出会い、ダダの運動に参加した。『リテラチュール』誌に詩を寄稿する傍ら、自ら『プロヴェルブ (箴言)』誌を創刊。1年ほどの短命な雑誌であったが、アラゴン、イサドラ・ダンカンジャン・アルプバンジャマン・ペレらが参加し[10]、第4号の表紙にピカビア作「若い娘」と題する穴が開けられるなど[11]、ダダイストの表現の場となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef