この項目では、アメリカ合衆国の実業家について説明しています。アメリカ合衆国の作曲家については「ポール・ヘイスティングス・アレン」をご覧ください。
ポール・アレン
Paul Allen
2013年のポール・アレン。フライング・ヘリテージ・コレクションにて。
生誕 (1953-01-21) 1953年1月21日
アメリカ合衆国・ワシントン州マーサーアイランド(シアトル近郊)
死没 (2018-10-15) 2018年10月15日(65歳没)
教育レイクサイド校
ポール・ガードナー・アレン[注 1](Paul Gardner Allen, 1953年1月21日 - 2018年10月15日)は、アメリカ合衆国の実業家、マイクロソフト社共同創業者。1983年に退社し、1990年に復帰するが、2000年に再び退社、取締役も退任。その後は資産運用や投資を業務とするバルカン社(英語版)を経営した。
マイクロソフト社をビル・ゲイツと共に創業し[2]、大資産家として知られており、2017年時点の資産205億ドル(2兆2500億円)、6つの財団を傘下に率いるポール・G・アレン財団を運営している。また、アレン脳科学研究所や音楽史美術館 Experience Music Project など様々な事業に出資や寄付をしている。SF ファンとしても知られ、私財を投じて SF博物館 Science Fiction Museum and Hall of Fame を設立したほか、SETI協会にも多額の寄付を行っており、アレンの名を冠した電波望遠鏡アレン・テレスコープ・アレイの建造も進められている。
アメリカのアメリカンフットボールプロリーグ(NFL)のシアトル・シーホークス、プロバスケットボールリーグ(NBA)のポートランド・トレイルブレイザーズ、プロサッカーリーグ(MLS)のシアトル・サウンダーズFCのオーナーとしても知られる。
若年期アレン(左)とビル・ゲイツ(1970年、シアトル・レイクサイドスクールにて)
アレンは1953年1月21日にワシントン州シアトルで司書のケネス・サム・アレン(Kenneth Sam Allen)とエドナ・フェイ・アレン(Edna Faye Allen、旧姓 ガードナー(Gardner) )の間に生まれた[3]。シアトルの名門私立学校であるレイクサイド・スクールに通っていた彼は、同じくコンピュータに関心を持っていたビル・ゲイツと親しくなった。彼らは学校のテレタイプ端末からタイムシェアリングシステムにアクセスしてプログラミングのスキルを身につけた[4]。また、ワシントン大学計算機科学部の研究室で個人的な研究やプログラミングをしていたが、あまりに入り浸っていたため、1971年に研究室から追放された[5]。
ゲイツとアレンは、リック・ウェイランド、およびゲイツの幼少期からの親友で最初の協力者でもあるケント・エヴァンスと共に、レイクサイド・プログラミング・クラブを結成した。そこで、コンピュータ・センター・コーポレーション(英語版)(CCC)のソフトウェアのバグを見つけ、その引き換えに同社のDEC PDP-10を無料で使わせてもらっていた。1972年、登山中の事故でエヴァンスが急死した。ゲイツはアレンに助けを求め、学校のクラス編成手順全体の自動化システムを完成させた[6]。その後、彼らはIntel 8008を使用した交通量計測システムを作るためにトラフォデータ(英語版)を結成した。
アレンによると、アレンとゲイツは10代の頃、コンピュータプログラムのコードを求めて「ダンプスター・ダイビング」をしていたという[7]。
アレンはSATで満点の1600点を取り[8]、ワシントン州立大学に進学した[9]。しかし2年後、ゲイツがハーバード大学に入学すると、アレンは大学を中退し、ハーバード大学の近くのハネウェル社でプログラマとして働き出した[4]。 1975年、ハーバード大学に在籍していたゲイツを説得し、ニューメキシコ州アルバカーキにてマイクロソフト社を設立。BASICインタプリタの販売を開始する。1980年にIBM社から OS 開発の要請を受け、アレンはシアトル・コンピュータ・プロダクツ社から 86-DOS(QDOS)を5万米ドルで買収する交渉の先頭に立った。彼らは 86-DOS を原型に PC-DOS(MS-DOS)を開発し IBM へ納入し、今日のマイクロソフト社の成長の基盤を築いていった。 1983年に持病であるホジキン病を理由にマイクロソフト社を退社。数か月に渡る放射線治療と骨髄移植で克服し、1985年にはアシンメトリックス社
経歴
1998年には米国の大手CATV会社であるチャーター・コミュニケーションズの株式を買収して筆頭株主となり、自らも同社の会長に就任したが同社はその後経営不振に陥り、2009年2月に連邦倒産法第11章の適用を受けた[10]。同社は速やかに経営再建を果たしてNASDAQへの再上場を果たしたが、ポール・アレンは株式を徐々に手離し、2013年3月、ジョン・マローンの率いるリバティメディアが大株主となった。また2008年1月に行われた米国の700MHz帯の競売にも「バルカン・スペクトラム」として参加し、シアトルなど2か所の免許を得ている。2004年コリアー・トロフィー受賞。
ポール・アレンの妹でバルカン社CEOジョディ・アレンは2009年11月16日、ポールが非ホジキンリンパ腫と診断されたと発表した[11]。その後も何度もがんを発症し、2018年10月15日に非ホジキンリンパ腫(びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫)により65歳で死去した[12][13]。