ポール・アリジン
[Wikipedia|▼Menu]

ポール・アリジン
Paul Arizin

故人
愛称Pitchin' Paul
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1928年4月9日
没年月日 (2006-12-12) 2006年12月12日(78歳没)
出身地ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没地ペンシルベニア州スプリングフィールドタウンシップ(英語版)
身長(現役時)193cm (6 ft 4 in)
体重(現役時)86kg (190 lb)
キャリア情報
高校ラサールカレッジ高等学校(英語版)
大学ビラノバ大学
NBAドラフト1950年 / 地域指名
フィラデルフィア・ウォリアーズから指名
プロ選手期間1950年?1965年
ポジションSF
背番号歴11
経歴
1950-1952, 1954-1962フィラデルフィア・ウォリアーズ
1962-1965キャムデン・ブレッツ(英語版)
受賞歴


NBAチャンピオン (1956)

10× NBAオールスター (1951, 1952, 1955-1962)

NBAオールスターゲームMVP (1952)

オールNBAファーストチーム (1952, 1956, 1957)

オールNBAセカンドチーム (1959)

NBA得点王 (1952, 1957)

NBA25周年オールタイムチーム

NBA50周年記念オールタイムチーム

NBA75周年記念チーム

EBAシーズンMVP (1963)

EBAチャンピオン (1964)

ヘルムズ財団年間最優秀選手 (1950)

スポーティングニュース年間最優秀選手 (1950)

オールアメリカン・コンセンサスファーストチーム (1950)

NCAA得点王 (1950)

No. 11 ビラノバ・ワイルドキャッツ永久欠番

通算成績
得点数16,266 (22.8 ppg)
アシスト数6,129 (8.6 rpg)
リバウンド数1,665 (2.3 apg)
Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

バスケットボール殿堂入り選手 ( ⇒詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年)

ポール・アリジン (Paul Arizin, 1928年4月9日 - 2006年12月12日) は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の元プロバスケットボール選手。ツーハンドによるセットシュートが主流だった1950年代初頭、ワンハンドでのジャンプシュートを武器に大量得点を重ねたスコアラーとして活躍し、バスケットボールの発展に大きな役割を果たした[1][2]

ビラノバ大学 (ワイルドキャッツ) 卒業後、1950年にプロキャリアの全てを過ごすNBAフィラデルフィア・ウォリアーズに入団。以後、兵役に就いた2年を除く全てのシーズンでオールスターに選ばれ、オールスターMVP1回、オールNBAチーム選出は4回、得点王には2回輝くなど名実共にリーグトップクラスの選手として初期のNBAを支えた。1956年にはウォリアーズをNBAファイナル制覇に導いている。1978年には殿堂入りを果たし、NBA25周年オールタイムチームNBA50周年記念オールタイムチームにも名を連ねた。
経歴
ジャンプシュートの発見

ポール・ジョセフ・アリジンは1928年、ペンシルベニア州フィラデルフィアにてフランス人の父とアイルランド人の母との間で生まれた。少年時代の彼のバスケットボールキャリアは決して平坦なものではなく、ラ・サール高校ではコーチから認められず、3年生のシーズンには2?3試合に使われた程度ですぐに切られてしまった。結局高校の代表チームには戻ることは出来ず、校内や教会などの独立チームでプレイし、一時期は6?7チームに所属して一晩で2試合をこなすこともあった。しかしこうしたチームでのプレーが、彼に幸運をもたらした。時にダンスホールでプレーすることもあったアリジンだが、滑りやすいダンス用の床では足を着けたまま打つセットシュートは危険だったため、飛び跳ねながら空中でシュートを打つようにした。これがアリジンにとってのジャンプシュートの発見だった。いつの間にか彼は全てのシュートを飛び跳ねながら打つようになったという。また天井の低いホールでの試合もあったため、彼のジャンプシュートは独特の低い軌道を描いた。
ビラノバ大学

優秀な学生でもあったアリジンは高校卒業後はペンシルベニア州のビラノバ大学に進学し、化学を専攻する傍ら、様々なバスケットリーグでプレーした(第二次世界大戦直後は大量の帰還兵の影響でアメリカ国内にはバスケットリーグが乱立していた)。アリジンのプレーする姿を見たビラノバ大のコーチは彼をスカウトし、奨学金を得たアリジンは大学2年生の1947-48シーズンからビラノバ大学ワイルドキャッツに加わることになった。カレッジバスケへの適応には暫く時間が掛かったが、9試合目にして初の二桁である10得点を記録。センターとしてプレーしたアリジンはこのシーズン、平均11.1得点をあげ、チームは15勝9敗の成績を残した。1948-49シーズンには飛躍的に成績を伸ばし、平均22.0得点をあげ、ある試合では85得点を記録した。チームも22勝3敗と好調のシーズンを過ごし、NCAAトーナメントに進出。この年の優勝チームであるケンタッキー大学の前に敗退するも、アリジンはカレッジスター選手のアレックス・グローザとのマッチアップで30得点を記録した。また敗者復活戦ではやはりカレッジスターのトニー・ラヴェルを8得点に抑え、自身は22得点をあげている。最終学年の1949-50シーズンは平均25.3得点を記録(シーズン通算735得点は当時歴代2位の記録)してオールアメリカンに選ばれると共に、Sporting News選出の年間最優秀選手を受賞。ビラノバ大は彼の背番号『11』を永久欠番に指定。また学業でも優秀な成績を収めた。
フィラデルフィア・ウォリアーズ

アリジンは1950年のNBAドラフトで地元フィラデルフィアに本拠地を置くフィラデルフィア・ウォリアーズから地域指名(地元出身者をドラフト指名できる制度)を受けてNBA入りを果たした。ウォリアーズが新人のアリジンと契約した年9,000ドルは当時としては破格の好条件だった。NBAの前身であるBAAの初代チャンピオンチーム(1947年)でもあるウォリアーズだが、アリジンが入団する前年は26勝42敗まで成績が落ち込んでいた。しかし新人アリジンは1950-51シーズンにウォリアーズをデビジョン1位となる40勝26敗まで大きく回復させると、自身は最初のオールスターに選ばれ、平均17.2得点9.8リバウンド、平均得点・リバウンド両部門でリーグトップ10入りを果たす。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:82 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef