ポール・アリジン
Paul Arizin
故人
愛称Pitchin' Paul
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1928年4月9日
没年月日 (2006-12-12) 2006年12月12日(78歳没)
出身地ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没地ペンシルベニア州スプリングフィールドタウンシップ
ポール・アリジン (Paul Arizin, 1928年4月9日 - 2006年12月12日) は、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の元プロバスケットボール選手。ツーハンドによるセットシュートが主流だった1950年代初頭、ワンハンドでのジャンプシュートを武器に大量得点を重ねたスコアラーとして活躍し、バスケットボールの発展に大きな役割を果たした[1][2]。
ビラノバ大学 (ワイルドキャッツ) 卒業後、1950年にプロキャリアの全てを過ごすNBAのフィラデルフィア・ウォリアーズに入団。以後、兵役に就いた2年を除く全てのシーズンでオールスターに選ばれ、オールスターMVP1回、オールNBAチーム選出は4回、得点王には2回輝くなど名実共にリーグトップクラスの選手として初期のNBAを支えた。1956年にはウォリアーズをNBAファイナル制覇に導いている。1978年には殿堂入りを果たし、NBA25周年オールタイムチーム、NBA50周年記念オールタイムチームにも名を連ねた。 ポール・ジョセフ・アリジンは1928年、ペンシルベニア州フィラデルフィアにてフランス人の父とアイルランド人の母との間で生まれた。少年時代の彼のバスケットボールキャリアは決して平坦なものではなく、ラ・サール高校ではコーチから認められず、3年生のシーズンには2?3試合に使われた程度ですぐに切られてしまった。結局高校の代表チームには戻ることは出来ず、校内や教会などの独立チームでプレイし、一時期は6?7チームに所属して一晩で2試合をこなすこともあった。しかしこうしたチームでのプレーが、彼に幸運をもたらした。時にダンスホールでプレーすることもあったアリジンだが、滑りやすいダンス用の床では足を着けたまま打つセットシュートは危険だったため、飛び跳ねながら空中でシュートを打つようにした。これがアリジンにとってのジャンプシュートの発見だった。いつの間にか彼は全てのシュートを飛び跳ねながら打つようになったという。また天井の低いホールでの試合もあったため、彼のジャンプシュートは独特の低い軌道を描いた。 優秀な学生でもあったアリジンは高校卒業後はペンシルベニア州のビラノバ大学に進学し、化学を専攻する傍ら、様々なバスケットリーグでプレーした(第二次世界大戦直後は大量の帰還兵の影響でアメリカ国内にはバスケットリーグが乱立していた)。アリジンのプレーする姿を見たビラノバ大のコーチは彼をスカウトし、奨学金を得たアリジンは大学2年生の1947-48シーズンからビラノバ大学ワイルドキャッツに加わることになった。カレッジバスケへの適応には暫く時間が掛かったが、9試合目にして初の二桁である10得点を記録。センターとしてプレーしたアリジンはこのシーズン、平均11.1得点をあげ、チームは15勝9敗の成績を残した。1948-49シーズンには飛躍的に成績を伸ばし、平均22.0得点をあげ、ある試合では85得点を記録した。チームも22勝3敗と好調のシーズンを過ごし、NCAAトーナメントに進出。この年の優勝チームであるケンタッキー大学の前に敗退するも、アリジンはカレッジスター選手のアレックス・グローザとのマッチアップで30得点を記録した。また敗者復活戦ではやはりカレッジスターのトニー・ラヴェル アリジンは1950年のNBAドラフト
経歴
ジャンプシュートの発見
ビラノバ大学
フィラデルフィア・ウォリアーズ