ポーランド農民党
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ポーランド政党ポーランド農民党
Polskie Stronnictwo Ludowe(PSL)
PSLロゴ
総裁ヴワディスワフ・コシニャク=カミシュ
成立年月日1990年5月5日
下院議席数28 / 460   (6%)(2023年10月15日)
上院議席数4 / 100   (4%)(2023年10月15日)
政治的思想・立場新農村主義
農本思想
キリスト教民主主義
緑の保守主義
地方分権
保護貿易
中道右派[1][2]
国際組織欧州人民党 (EPP)
公式サイト ⇒PSL - zawsze blisko ludzi

ヴワディスワフ・コシニャク=カミシュPSL総裁
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ポーランド農民党(ポーランドのうみんとう、Polskie Stronnictwo Ludowe, 略称:PSL)は、ポーランド中道右派政党英語圏のメディア等でPolish People's Party の訳を用いるものがあるため、日本語でポーランド国民党とされることもあるが,現地を知る研究者らの間ではPolish Peasant Partyの訳が広く浸透している[3][4]日本の研究者の間でも「農民党」と呼ばれていることが多い。
概説2007年総選挙における郡別のPSL得票率。中部から東部を中心とした色が濃い地域ほど農民党の支持が強いことを示している。

19世紀末に当時のオーストリア領で結成され、名称は様々に変化しているが、現在まで存続している政党で農村部における農業従事者を主な支持基盤としている。現在のポーランド農民党(ポーランドのうみんとう、ポーランド語:Polskie Stronnictwo Ludowe, 略称:PSL)は、共産党政権下において衛星政党として存在していた統一農民党が1989年11月に活動を停止した後、新たに組織されたポーランド農民党「再生」(PSL “Odrodzenie”)と、1989年に独自結成されたポーランド農民党(PSL)が、1990年5月5日に合同して結成された政党である。

1993年から2003年までは中道左派政党の民主左翼連合(SLD)と、2007年の議会選挙から2015年までは中道右派政党である市民プラットフォーム(PO)と、それぞれ連立政権を組んでいた。
政治的立場

新農村主義とカトリックに依拠する中道右派政党で、経済面では社会的生存権を重視。調停者として国家の経済への一定の介入余地を確保したうえで社会事業には原則的に民間の企業が主導する形での連帯経済を主張している。基本的に民間ができることは民間がやるべきで国家や自治体は関わるべきではないというのが、時によって国王や領主などの権力者にひどく搾取されてきた農民たちの多いヨーロッパ伝統の農村主義の自由放任主義(レッセフェール)の考えであるが、この政党はその昔ながらの農村主義よりも多少は国家の役割に比重を置いている。地方分権欧州連合(EU)によるヨーロッパ統合も重視している。

農家独自の健康保険制度や年金制度を全国的な国民健康保険制度や国民年金制度に組み込む社会福祉改革や、これまでさまざまな所得控除、還付金、農業補助金などの優遇措置により結果として事実上の所得税負担をせずに済んでいた中小規模の農家に対し実質的にある程度の所得税負担を課すことになる会計制度や税制の改革に強く反対しており、この2点においては国家権力は信用できないとして国家による農村支配に激しく抵抗してきたヨーロッパ伝統の農村主義の保守性を断固として堅持している。この2点を巡っては、国民健康保険と国民年金のそれぞれの一元化を目指し、また国民の血税で建設したインフラを使用しているのだから中小農家も多少は社会的負担をすべきだと主張するPOと連立与党内で激しく対立しており、これらの問題の解決については少なくとも次の総選挙までは連立与党を維持する必要上、当面は棚上げとなっている。
沿革
19世紀末?第2次世界大戦ヴィンツェンティ・ヴィトス

19世紀末の1895年、オーストリア領で農民党(Stronnictwo Ludowe,SL)が結成された。当初は議会選挙における集票組織としての性格が強かったが、1903年にポーランド農民党(PSL)に改称し明確な政治綱領を有する政党となり、1913年の議会選挙で議会進出を果たした。当時の農民党は議会政治家であるヴィンツェンティ・ヴィトス(en:Wincenty Witos)の指導下で穏健路線を採っていたが、これに反発した急進派が1913年に農民党左派を結成したことで分裂した(1915年にロシア領で結成された解放派に合流)。

独立後のポーランドにおいて農民党ピャスト派は中道政治勢力を代表する政党として存在感を発揮した。農地改革については穏健な立場を採り、国家における教会の役割も容認し、辺境におけるポーランド人の地位向上を主張した。中道政党でありながら右派政党であるエンデツィア(ポーランド国民民主党)との連立を志向していた。そして地域的にはガリツィア地域で優勢だったものの、旧ドイツ領での影響力は殆ど無かった。一方、農民党解放派は急進的な農地改革・反教権主義・少数民族自治を主張するなど、左翼政党であるポーランド社会党と共通の立場をとった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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