ポーランド軍団
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この項目では、18世紀末から19世紀初頭の軍事組織について説明しています。現代のポーランド共和国軍については「ポーランド軍」をご覧ください。
ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキイタリア戦線の第1ポーランド軍団の軍旗イタリア戦線でのポーランド軍団兵

ナポレオン時代のポーランド軍団 (フランス語: Legions polonaises ポーランド語: Legiony Polskie we W?oszech)[1]は、主に1797年から1803年までフランス大陸軍に参加していた亡命ポーランド人部隊の総称。一部はナポレオン戦争末期の1815年まで生き延びた。

概要

1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド・リトアニア共和国が滅亡した。この時、多くのポーランド人は、分割に参加したプロイセン、オーストリア、ロシアを敵に回した革命フランスが救援に来てくれると考えた。そのため多くの旧ポーランド軍将兵がフランスやその衛星国姉妹共和国に移住し、フランス軍に投じた。その数は、短期間のうちに数千人にまで膨れ上がった。彼らはナポレオン・ボナパルトの後押しを受け、フランス軍内で旧ポーランド軍の軍制を持ちポーランド人将校が指揮する部隊を結成した。これがフランス下に亡命したポーランド軍、いわゆるポーランド軍団である。主な指揮官として、ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ、カロル・クニャジェヴィチ、ユゼフ・ヴィビツキなどが知られている。

ポーランド軍団は、西インド諸島からイタリアエジプトに至るまで、ほとんどのナポレオン戦争中の戦闘に参加した。1807年にフランスのもとでワルシャワ公国が建設されると、ポーランド軍団の将兵の多くがユゼフ・ポニャトフスキのもとに集い、ワルシャワ公国軍の中核をなした。この軍は1809年の対オーストリア戦争で勝利をおさめ、ナポレオンの諸遠征に帯同したが、1812年のロシア遠征を経て、ナポレオンの帝国やワルシャワ公国とともに衰亡へ向かった。
変遷と兵数

「ポーランド軍団」と呼ばれる集団の存在時期は、歴史家たちの間でも認識が定まっていない。ポール・ロバート・マゴックシーは、その全盛期が1797年から1801年あたりであったとしている[2]。イェジ・ヤン・レルスキは、ポーランド軍団がフランス軍を構成する組織として存在したのは1797年から1803年までであるとしている[1]ノーマン・デイヴィスは、その存在期間は5年ないし6年だったとしている[3]。ポーランド百科事典(Encyklopedia PWN)には、17917年から1801年まで機能した軍団であった(1801年に半旅団に改組)と記されている[4]。WIEM百科事典(WIEM Encyklopedia)では、ハイチ遠征で軍団を構成する兵のほとんどが死亡した1803年をもって軍団の終焉としている[5]。一方で、1803年以降も小規模ながら存在したポーランド人部隊、特に1808年から1813年まで活動したヴィスワ軍団などまで含めて「ポーランド軍団」の存在時期を規定している場合もある[6]

ポーランド軍団を形成した兵数(最盛期)も、2万人から3万人まで諸説ある。WIEM百科事典は、1803年の時点で2万1000人と推定している[5]。デイヴィスやマゴックシーは、1802年から1803年の時期で2万5000人と推定している[2][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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