この項目では、18世紀の継承戦争について説明しています。16世紀の戦争については「ポーランド継承戦争 (1587年-1588年)」をご覧ください。
ポーランド継承戦争
ダンツィヒ攻囲戦
戦争:ポーランド継承戦争
年月日:1733年 - 1738年11月18日
(1735年に停戦)
場所:ポーランド、ドイツ、イタリア
結果:アウグスト3世の即位、ウィーン条約
交戦勢力
スタニスワフ・レシチニスキ
フランス王国
スペイン王国
サルデーニャ王国 フリードリヒ・アウグスト・フォン・ザクセン
ロシア帝国
ハプスブルク君主国
ザクセン選帝侯領
プロイセン王国
指導者・指揮官
ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ †
ヴィラール公クロード・ド・ヴィラール
フランソワ=マリー・ド・ブロイ
パルマ公カルロ1世
カルロ・エマヌエーレ3世 ピョートル・ラシ
プリンツ・オイゲン
クロード・フロリモン・ド・メルシー †
ポーランド継承戦争
ポーランド継承戦争(ポーランドけいしょうせんそう、ポーランド語: Wojna o sukcesj? polsk?、ドイツ語: Polnischer Thronfolgekrieg、1733年 - 1735年)は、ポーランド王国の王位継承をめぐって勃発した18世紀ヨーロッパの戦争。 1733年2月にポーランド王アウグスト2世(兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世)が崩御すると、ポーランド貴族(シュラフタ)出身のスタニスワフ・レシチニスキが王位を請求し、娘婿にあたるフランス王ルイ15世はこれを支持した。スタニスワフは大北方戦争中の1704年から1709年まで、スウェーデンによって傀儡のポーランド王として擁立されていた(スタニスワフ1世)。 しかし、アウグスト2世の嫡出子であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世もまた王位を請求し、神聖ローマ皇帝カール6世やロシア帝国のアンナ女帝の支持を得ていた。 ポーランド議会(セイム)ではスタニスワフがシュラフタ多数の賛成を得て即位したが、一部の反対派はザクセン選帝侯をポーランド王アウグスト3世と宣言した。このため、ポーランドの内戦は関係国を巻き込んで戦争へと発展した。 スタニスワフ・レシチニスキ、1727年画 ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世、1730年画 大北方戦争の結果、ロシア帝国は西方への影響力を増した[1]。またプロイセン王国は、同戦争でロシア側に付き、また1701年に王国に昇格したばかりで、北部ドイツで勢力を拡大していた[1]。
目次
1 背景
1.1 ポーランド継承問題
1.2 国際情勢
2 戦争の経過
2.1 王位継承をめぐって
2.2 ライン川方面
2.3 イタリア方面
3 和平
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
背景
ポーランド継承問題
国際情勢詳細は「大北方戦争」および「国事詔書」を参照