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やノートページでの議論にご協力ください。ポーランドの現代音楽(ポーランドのげんだいおんがく)では、第二次世界大戦後のポーランドの前衛的な現代音楽の動向を概観する。 1945年5月8日の第二次世界大戦終結後、ポーランドはソビエト連邦の影響下に置かれ、いわゆる「スターリン時代」の辛酸を嘗める。そのヨシフ・スターリン没後、西側の前衛音楽の吸収に最も積極的に動いた国がポーランドであり、1950年代後半からポーランド出身の作曲家が次々と頭角を現す。1960年代には、彼らはドイツを始めとする西側の批評家を中心に「ポーランド楽派」と名付けられるに至る。ただし、「楽派」といっても、音響美を重視するという以上には彼らの間に様式上の明確な類似性があるわけではなく、その明確な定義や、含まれる作曲家の範囲は現在のところあいまいである。 スターリン批判を率先して行った最初のポーランドの作曲家がヴィトルト・ルトスワフスキである。彼の「葬送音楽」(1954-1958年)は西側の前衛音楽への興味が最初に現れ、また公的に発表を許された最初期の作品である。ルトスワフスキは既に第二次世界大戦前から創作活動を行い、2台ピアノのための「パガニーニの主題による変奏曲」(1941年)完成時には新古典主義的な独自の書法を完成させていた。この作品はアンジェイ・パヌフニクと作曲者自身のピアノで披露されている。彼はジョン・ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(1958年)を聞き、作曲観が180度回転するほどの大ショックを受け、新しい個人様式への渇望を感じるようになったという。 彼の個人様式を語る上で欠かせないのが「ad lib.動律」である。作品は五線譜上に通常の定量記譜法で書かれるが、「パート同士の縦の線を合わす必要はない」とされ、指揮者は入りの瞬間のみを提示し、柔軟性に富んだテクスチュアが展開される。この時期の「ヴェネチアの遊び」、「オーケストラの書」、「チェロ協奏曲」などにこの作風は強く現れている。しかし、1970年代以降ルトスワフスキはセミクラシック的な作風を濃くしてゆく。 また戦後、ポーランドで作曲家のホープとされたのはアルトゥール・マラフスキ
ポーランド楽派
ヴィトルト・ルトスワフスキ