ポーランド・チェコスロバキア連合
[Wikipedia|▼Menu]
ポーランドとチェコスロバキアの領土を合わせた地図。左は戦間期、右は第二次世界大戦後の国境を基にしている。

ポーランド・チェコスロバキア連合 (ポーランド語: Konfederacja polsko-czechos?owacka)もしくはポーランド・チェコスロバキア連邦 (ポーランド語: Federacja polsko-czechos?owacka)は、第二次世界大戦中にポーランド亡命政府が提唱し、小規模ながらイギリスアメリカでも検討された中欧国家連合ないし連邦国家構想。提携後の国家形態を定義するには至らなかったため、この構想の最終目標を連邦国家とみる場合と国家連合とみる場合の両方の表記が存在する。ポーランドの歴史的なミェンズィモジェ構想の流れをくみ、中・東欧の統一勢力をポーランドとチェコスロバキアの提携を核に作り出そうというもので、戦略的には戦後にソビエト連邦の脅威に対抗することを見据えた計画だった。しかしチェコスロバキア亡命政府はポーランドよりもソ連を頼ろうとしたため構想に乗り気でなく、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンが東欧の勢力圏を脅かしうる独立勢力が誕生することを望まなかったこともあり、構想は実現しなかった。
目次

1 背景

2 交渉

3 その後

4 脚注

5 参考文献

背景

ナチス・ドイツポーランド侵攻後、ポーランド政府とチェコスロバキア政府はともにイギリスのロンドン亡命政府を形成した[1]。しかし同じ敵を相手にしているにもかかわらず、以前から領土問題を抱えていたために両者の仲はあまり良好でなかった[2][3]。ポーランド亡命政府は19世紀以降ポーランドで論じられてきたミェンズィモジェ構想を復活させ、中欧と東欧のポーランド・チェコスロバキア周辺諸国を結束させ、将来のドイツやソ連の圧迫に対抗する、という案を出した[4][5]。チェコスロバキア亡命政府も、暫定的ながらこの構想を支持するようになった[5][6]
交渉 チェコスロバキア亡命政府大統領エドヴァルド・ベネシュ ポーランド亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキ

チェコスロバキア亡命政府内の指導者のうち、ミラン・ホッジャヤン・マサリクは連合構想を支持していた[6]。一方で大統領エドヴァルド・ベネシュはあまり乗り気ではなかった。というのも彼の目標はミュンヘン会談の結果ポーランドに奪われたザオルジェを取り戻すことであったからである[2][7]。そのため、連合構想をめぐる交渉ではザオルジェ問題が中心的な議題となった[2][8]。ザオルジェ奪還を最優先と考えていたベネシュは、ちょうどポーランドに侵攻していたソビエト連邦を、ポーランドに対抗するための潜在同盟国と考えていた。彼はいくつかの小国が連合するよりも、強大なソ連と組む方がチェコスロバキアに利をもたらすと考えたのである[2][3][6][7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef