ポーランド・チェコスロバキア連合 (ポーランド語: Konfederacja polsko-czechos?owacka)もしくはポーランド・チェコスロバキア連邦 (ポーランド語: Federacja polsko-czechos?owacka)は、第二次世界大戦中にポーランド亡命政府が提唱し、小規模ながらイギリスやアメリカでも検討された中欧の国家連合ないし連邦国家構想。提携後の国家形態を定義するには至らなかったため、この構想の最終目標を連邦国家とみる場合と国家連合とみる場合の両方の表記が存在する。ポーランドの歴史的なミェンズィモジェ構想の流れをくみ、中・東欧の統一勢力をポーランドとチェコスロバキアの提携を核に作り出そうというもので、戦略的には戦後にソビエト連邦の脅威に対抗することを見据えた計画だった。しかしチェコスロバキア亡命政府はポーランドよりもソ連を頼ろうとしたため構想に乗り気でなく、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンが東欧の勢力圏を脅かしうる独立勢力が誕生することを望まなかったこともあり、構想は実現しなかった。 ナチス・ドイツのポーランド侵攻後、ポーランド政府とチェコスロバキア政府はともにイギリスのロンドンで亡命政府を形成した[1]。しかし同じ敵を相手にしているにもかかわらず、以前から領土問題
目次
1 背景
2 交渉
3 その後
4 脚注
5 参考文献
背景
交渉 チェコスロバキア亡命政府大統領エドヴァルド・ベネシュ ポーランド亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキ
チェコスロバキア亡命政府内の指導者のうち、ミラン・ホッジャとヤン・マサリクは連合構想を支持していた[6]。一方で大統領エドヴァルド・ベネシュはあまり乗り気ではなかった。というのも彼の目標はミュンヘン会談の結果ポーランドに奪われたザオルジェを取り戻すことであったからである[2][7]。そのため、連合構想をめぐる交渉ではザオルジェ問題が中心的な議題となった[2][8]。ザオルジェ奪還を最優先と考えていたベネシュは、ちょうどポーランドに侵攻していたソビエト連邦を、ポーランドに対抗するための潜在同盟国と考えていた。彼はいくつかの小国が連合するよりも、強大なソ連と組む方がチェコスロバキアに利をもたらすと考えたのである[2][3][6][7]。