ポーランド・オーストリア戦争
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ポーランド・オーストリア戦争
第五次対仏大同盟

ラシンの戦いで没するポーランド詩人ツィプリャン・ゴデプスキ(ヤヌアルィ・スホドルスキ画)

時1809年4月10日 ? 1809年10月14日
場所ワルシャワ公国, ガリツィア
結果ワルシャワ公国の勝利
シェーンブルンの和約
領土の
変化ワルシャワ公国がオーストリアからガリツィアを獲得

衝突した勢力
ワルシャワ公国
ザクセン王国
 ロシア帝国 オーストリア帝国
指揮官
ユゼフ・ポニャトフスキ
ドミトリー・ゴリツィン フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=エステ
戦力
37,000人 (ワルシャワ軍)85,000人
被害者数
戦死 ~1,000人
捕虜 2,000人戦死 ~1,500人
捕虜 7,000人
ワルシャワ公国(1807年 - 1809年)

ポーランド・オーストリア戦争 (ポーランド語: Wojna polsko-austriacka フランス語: Guerre austro-polonaise) は、1809年にフランス帝国影響下でポーランドに建国されたワルシャワ公国が、オーストリア帝国と戦った戦争である。この戦争は、第五次対仏大同盟(オーストリア、イギリスによるフランス・バイエルンに対する包囲網)に対してナポレオン・ボナパルト率いるフランスが起こしたオーストリア戦役の一部でもある。ワルシャワ公国軍はあえて首都ワルシャワを一時放棄することで、ポーランド分割以前の領土だったクラクフリヴフを回復することに成功した。オーストリア本軍がヴァグラムの戦いでナポレオンに決定的敗北を喫したのもあり、ワルシャワ公国は大幅な拡大(ポーランド旧領の回復)に成功した。
戦争の経過
オーストリアの侵攻

1808年、ワルシャワ公国に駐屯していたフランス軍がイベリア半島での半島戦争に投入されたため、公国は自身の公国軍で自営しなければならなくなった[1]。第五次対仏大同盟戦争がはじまると、1809年4月14日にフェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=エステ(エステ大公)率いるオーストリア軍がワルシャワ公国に侵攻した。これに対抗するワルシャワ公国軍の司令官は、最後のポーランド王スタニスワフ2世アウグストの甥ユゼフ・ポニャトフスキ であった[1]1809年のワルシャワ公国軍(2006年6月の再現イベント)

4月19日ラシンの戦いで、ワルシャワを目指してくるオーストリア軍の進軍を止めるべく、ポニャトフスキは敵の2倍のワルシャワ軍を率いて戦ったが、決着がつかなかった。そこでポニャトフスキは、防衛に向かないワルシャワを一旦放棄し、自軍の機動性を確保したうえで、ヴィスワ川右岸(東岸)に渡ってくるオーストリア軍を叩く、という戦略を立てた[1][2]。実際、オーストリア軍はワルシャワ占領に成功したものの、これはピュロスの勝利でしかなかった。元から敵と比べ少ない軍勢を、各方面の戦線に散らさなければならなくなったからである。エステ大公はワルシャワに1万人を残し、6000人の軍団をヴィスワ川右岸へ送り、残りをトルンなどヴィスワ川左岸に送ることにした[2]
ワルシャワ公国の反撃とガリツィア逆侵攻

ワルシャワは、その中央をヴィスワ川が南北に貫通している都市である。右岸へ進出しようとしたオーストリア軍6000人は、まずワルシャワ右岸中央部のプラガ地区を攻撃したが、ポニャトフスキが残していった1000人のワルシャワ軍守備隊に阻まれた[2]。この4月26日のグロフフの戦いでワルシャワ軍のミハウ・ソコルニツキは大勝をおさめた。数日後、オーストリア軍は再びソコルニツキに挑んだものの、5月2日から3日にかけてのオストロフの戦い(グラ・カルヴァリアの戦い)で惨敗し、建設した橋や建築装備なども破壊された[2]。ワルシャワ軍は、ヴィスワ川右岸での主導権を確実なものにした[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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