ポーランド・アンジュー朝
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ポーランドの歴史

ピャスト朝
10世紀 - 1370年 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年クラクフ共和国
1815年 - 1846年ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在


ポーランド・アンジュー朝(:Andegawenowie)は、ハンガリー=アンジュー家によって1370年から1399年まで続いたポーランド王国の王朝。アンジュー朝と呼ばれる王朝の一つである。
歴史
アンジュー家の王位獲得まで

分裂著しかったポーランドヴワディスワフ1世短身王の許で再統一される。しかし、ボヘミアヨハン盲目王及びその支援を受けたドイツ騎士団の猛攻に曝されており、それは息子カジミェシュ3世大王の時代にも変わらなかった。そのような状況下、仲裁に入ったのがハンガリー王カーロイ・ローベルトである。カーロイはカジミェシュ3世の姉エルジュビェタと結婚しており、膨張著しいハプスブルク家に対抗するためにハンガリーアンジュー家)・ポーランド(ピャスト家)・ボヘミア(ルクセンブルク家)の3カ国連合が必要だと考えていた。そして1335年、カーロイの斡旋下でカジミェシュ3世とヨハンは和解した。

カジミェシュ3世は4回結婚したが、女子しか儲けることしか出来なかった。そこでカーロイとエルジュビェタの息子ラヨシュ1世1342年にハンガリー王に即位した)を後継者にした。ラヨシュ1世は王位継承権を得た代償として、カジミェシュ3世の度重なる外征への膨大な援助を余儀なくされた。

もっとも、カジミェシュ3世は他家よりも傍系でも同じピャスト家に相続させたいと考えたのか、1370年に死去する直前に女系の孫であるスウプスク公カシコとラヨシュ1世との間で分割するよう遺言した。しかし、王国が再分裂することを恐れたシュラフタ(ポーランド貴族)は、カシコに王位放棄の代償としてドイツ騎士団からの返還予定地であるドブジンを与えることで納得させ、ラヨシュ1世はルドヴィク1世として晴れてポーランド王に即位することが出来た。
ルドヴィク1世の統治

ルドヴィク1世は、その関心をもっぱらバルカンナポリに向けていたので、ポーランドは母エルジュビェタが統治することになった。ポーランド貴族はこれを好機と捉えて、ルドヴィク1世から多大な特権を得ることに成功している。1355年に発行された「ブダの特権」は貴族・聖職者階級からの新税を免除するものであった。加えて1374年の特許状では貴族及び騎士が有する農地で働く農民が払うべき「」税の軽減が定められ、騎士や聖職者への手当も支給されることになった。結果、貴族の力が増大して王権が弱体化し、4世紀後に王国は滅亡に至ることになる。

また、総体的にはハンガリーとの連合はポーランドに利益をもたらすどころか、損害しか与えなかった。ルドヴィク1世は、カジミェシュ3世が心血注いで獲得したハーリチ地方をハンガリー領に編入したり、シロンスクをボヘミアに、辺境の係争地をブランデンブルク辺境伯に割譲したからである。当然のことながらポーランド国内では激しい反発心を引き起こし、1376年の暴動では数十人のハンガリー人が虐殺されている。1382年にルドヴィク1世が死去すると、ポーランド貴族の反発心は一気に爆発する形となる。
ヤドヴィガの統治
ハンガリーとの連合解消とヤドヴィガの推戴

ラヨシュ死後は、その年長の娘マーリアおよびその許婚であるルクセンブルク家のジギスムント(ヨハン盲目王の孫でカジミェシュ3世の女系の曾孫)が共同統治を行うことになっていた。しかし、両人ともポーランドの敵であるドイツ騎士団への親近感を隠すことはなかった。


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